主人公はジュディ・オング自身?
さてこの「魅せられて」の歌詞に登場する主人公の設定は誰なのでしょうか?
女性であることは間違いありません。
それも並々ならぬ美貌と妖艶さを兼ね備えた人物。
楽曲を歌い上げるジュディさんの印象があまりにも強いので彼女が主人公となってもおかしくはないでしょう。
もしくは自由奔放な恋愛に身をやつす絶世の美を誇る女性。
歌い手のジュディさんがあまりにも魅力的なのでイメージはしやすいと思います。
1番の歌詞は自由奔放な愛に生きる1人の女性の妖しいくらいの美しさを表現しています。
そうなってくるとジュデイ・オングさん自身が主人公に設定されていても全く違和感はないですね。
英語や中国語のバージョンもある「魅せられて」
恋する女は残酷な女神?
Wind is blowing from the Aegean
女は海
好きな男の 腕の中でも
ちがう男の 夢を見る
Uh─ Ah─ Uh─ Ah─
私の中で お眠りなさい
Wind is blowing from the Aegean
女は恋
出典: 魅せられて/作詞:阿木燿子 作曲:筒美京平
Aegeanとはギリシャとトルコに挟まれたエーゲ海のことですね。
海は大きく地中海を表すのではなくて、具体的に青い色や美しさをイメージしやすいエーゲ海だったのです。
「エイジアン」はアジアのことなのかなと昔は思っていたけれど、そうではありませんでした。
サビの英語の歌詞はジュディ・オングが英語に堪能なことからあえて入れたのでしょうね。
「魅せられて」には日本語だけではなくて英語や中国語のバージョンもあるのです。
こういうところに彼女の語学力が生きていますね。
この曲でとても重要なのは女性を海に例えているところです。
すべてを受け入れる包容力やなんでも飲み込んでしまう貪欲さの両方を表しているのだと思います。
包容力というよりは”したたかさ”といったほうがいいかもしれません。
夢心地の男性をまるで母親に抱かれた子供のように描いたところもあります。
男は大海原を漂う小舟みたいなものなのでしょうか。
恋する女は残酷な女神のようでもあります。
太古より全ての生命は海から誕生した
海は全ての命をはぐくんできた大いなる揺りかごです。
その海を象徴するものこそ、「女性」なのです。
どんなに逞しく荒々しい男性も、みな母なる象徴「海」から誕生しているのです。
だから女性を前にすると、男性は一気に子供にかえってしまうともいえるのです。
もし目の前の女性が主人公のごとく、エキゾチックで母性にあふれた女性だったとしたら。
恐らくすべての男性は主人公の大いなる魅力にいちころでしょう。
だから、女性は強いのです。
女性が別の男性に興味を惹かれてしまうのは子孫を残すという大役があるからです。
より強くて逞しく、そして女性をその気にさせてくれる男性を常に求めているからです。
しかし、それは決して異常な行動ではありません。
神秘な国、ギリシャをあおぐエーゲ海にあって愛に奔放に生きることは神より許された特権だからでしょう。
ナルシズムが漂う女性の想い
複雑で分かりにくい女心
昨夜の余韻が すみずみに
気怠い甘さを 残してる
レースのカーテン ひきちぎり
体に巻きつけ 踊ってみたくなる
出典: 魅せられて/作詞:阿木燿子 作曲:筒美京平
ここは大人の恋と激しく揺れる女性の心を描いたパートです。
熱い一夜を過ごしたあとには満足感だけではなくどこかに物足りなさもあるのでしょうね。
ここにも包容力だけではなく貪欲さやしたたかさを合わせ持つ女性の姿が見えるようです。
カーテンを巻きつけたいのはたぶんベッドから起き上がったままの素肌なのでしょう。
そこにはナルシズムも漂っているように思います。
踊ってみたいのは自分の感情を開放したいからでしょうね。
まだまだ物足りない、はっきり言ってしまえば今の男性や恋に満足できないのです。
男性を我が子のように慈しむ母親のような姿を見せたかと思えば”ひきちぎる”という激情も見せる女性。
ところで男性の方はどうなのでしょう。
次のデートが楽しみでスキップでもしながら帰っていったとすれば悲劇どころか喜劇です。
女心ほど複雑で分かりにくいものはありませんね。
自由奔放な愛に生きるのも宿命のもとだから?
恐らく多くの女性は、一夜を共にした男性をさしおいて全裸で踊るなんてことは行わないでしょう。
歌詞の中では、さすがに主人公もそこまではやっていません。
しかし、そうしてみたいという欲望はギラギラと持っているようです。
なんという奔放で自由な欲望なのでしょうか。
しかし、歌詞からは少しもいやらしさは感じません。
むしろ、それが当たりまえのような印象すら覚えさせます。
恐らく、今の喜びを体いっぱい表現したいのでしょう。
自分の本心を包み込んでじっとなんかしていられない。
嬉しいなら、体を使って表現すればいいじゃない?
つつましやかに育てられた家庭ではとてもこんな愛の表現はできないでしょう。
主人公は自由奔放に自分の思いを表現することを全く厭いません。
もはやそれは主人公の宿命ともいうべきものだからなのでしょうか?