三味 が折れたら 両手を叩け
バチが無ければ 櫛でひけ
音の出るもの 何でも好きで
かもめ啼く声 ききながら
アイヤー アイヤー
小樽 函館 苫小牧
出典: 風雪ながれ旅/作詞:星野哲郎 作曲:船村徹
歌詞の解釈に戻ります。
2番の歌詞では、プロの演奏者としての覚悟が歌われています。
プロとはいっても、門付けで得られる収入はそれほど多いものではないと思われます。
現代のプロミュージシャンのように何本も楽器を持っているとはあまり考えられません。
「飯の種」である三味線が折れる、バチが折れるというようなトラブルはつきものだったかもしれません。
そんなトラブルに見舞われても、誰かに向けて弾く以上、演奏を止めることはできないのです。
両手を叩きながらも歌い切るという強い覚悟を歌っています。
洋の東西を問わず、また時代がいつであっても、人前で芸を披露するにはそのような覚悟が必要なのです。
津軽三味線の特徴
ここで少し津軽三味線について見てみましょう。
津軽三味線(つがるしゃみせん、つがるじゃみせん)は、津軽地方(現在の青森県西部)で成立した三味線音楽。本来は津軽地方の民謡伴奏に用いられるが、現代においては特に独奏を指して「津軽三味線」と呼ぶ場合が多い。撥を叩きつけるように弾く打楽器的奏法と、テンポが速く音数が多い楽曲に特徴がある。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/津軽三味線
テンポが早く叩きつけるように演奏するので、三味線の棹(さお)は太く、バチは小ぶりなものになっています。
このような特徴は、他の奏者より目立つようより大きな音、派手な弾き方と競い合ううちに発達したということです。
津軽三味線が全国に知られるようになった経緯
風雪ながれ旅のモデルとなった高橋竹山は、太平洋戦争後、民謡の伴奏者として各地を回り始めます。
実際に「竹山」と名乗るようになったのはこのときからです。
これは、伴奏者として竹山を選んだ成田雲竹という民謡歌手に名付けられた芸名なのです。
竹山はラジオ出演、津軽三味線独創レコードの発売、ドキュメンタリー番組の放送などを経て有名になっていきました。
メディアに登場することで、津軽三味線が人々の耳に届く機会が圧倒的に増えたことでしょう。
そうして津軽三味線を全国に普及させた第一人者と呼ばれるようになったのです。
3番の歌詞
3番の歌詞はこれまでと趣が変わってきます。
鍋のコゲ飯 袂で隠し
抜けてきたのか 親の目を
通い妻だと 笑った女の
髪の匂いも なつかしい
アイヤー アイヤー
留萌 滝川 稚内
出典: 風雪ながれ旅/作詞:星野哲郎 作曲:船村徹
1番の歌詞では置かれた環境の厳しさが、2番の歌詞では演奏家としての覚悟が歌われてきました。
3番では、男のもとに甲斐甲斐しく通う女性の姿が歌われています。
鍋のコゲ飯 袂で隠し
抜けてきたのか 親の目を
出典: 風雪ながれ旅/作詞:星野哲郎 作曲:船村徹
これは、親の目を盗んで、底の方に残ったわずかなご飯を男のために届けにきたということでしょう。
炊飯器で炊くご飯にはおこげはできませんね。
最近ではわざわざおこげを作る機能のある炊飯器もあるようですが。
ご飯を炊くのは鍋ではなくて釜だという意見もありますが、歌詞で「鍋」としたのはなぜでしょう。
想像に過ぎないのですが、釜ではなく囲炉裏に鍋をかけて米を炊くような、貧しさの表現ではないでしょうか。
女の方も消して恵まれた環境ではないということを言いたかったように思います。
単にメロディーに載せたときの語呂の問題という可能性もあります。
恋の思い出
通い妻だと 笑った女の
髪の匂いも なつかしい
出典: 風雪ながれ旅/作詞:星野哲郎 作曲:船村徹
時代を考えると、今ほど自由に恋愛ができる環境ではなかったでしょう。
門付けという職業の地位が低いものであったこともあります。
女の親としては、しがない門付け芸人との恋は到底賛成できるものではなかったと思われます。
女は男に対して自分のことを「通い妻」だと笑ってみせるのですが、その笑顔はどのようなものだったのでしょう。
男には見えないのですが、男はその髪の匂いを懐かしんでいます。
この恋は、やはり成就しなかったのではないでしょうか。