現代の魔女は誰のことでしょうか?
俗に少数意見と称される人々を指すと思われます。
民主主義社会は、多数決によって運営されるのが普通です。
しかし世の中には大勢の人がいますから、満場一致はなかなか起こることではありません。
どこにでも、少数意見の人がいるものです。
確かに彼らの意見は、大多数とは異なっているかもしれません。
しかし、的を射た指摘をする人や、見落としを教えてくれる人などもいます。
数が少ないからといって、聞き流して良い意見ばかりではないのです。
反面、少数意見への賛成者が少ないために、責められる危険と隣り合わせでもあります。
多数派から「お前は間違っている」と言われやすいということです。
多数派にとっては自分たちこそが正しく、他は間違っているのでしょう。
だからこそ、善を語って相手を責め立てます。
しかし、本当にそれは正しいことなのでしょうか?
多数派は何をしても良いのでしょうか。
歴史認識の変化
歴史を振り返ると、必ずしもそうではなかったことに気づきます。
中世の魔女狩りを、多くの人が「正しい」と信じて疑いませんでした。
そのために何人もの女性が犠牲になりました。
しかし、後年になってその評価は変わりました。
現在は、「魔女狩りはいけないこと」とされています。
人類は歴史から学び、より良い世界を作ろうとしてきました。
同時に「歴史は繰り返す」ともいわれます。
私たちは何度も少数派を踏みつけにし、誰かを攻撃しているのかもしれません。
傍観する人々
人の不幸から垂れ流される
蜜に群がる働かない蟻
出典: Witch/作詞:Fukase 作曲:Fukase,Nakajin
現代の魔女狩りが、SNS上を通じて行われることも増えてきました。
簡単に誰かを炎上させることができるからかもしれません。
誰かの猛烈な批判に遭い、数々の心ない言葉にさらされた人は、傷つきます。
一方、無実の人を炎上させた当人は涼しい顔です。
ここに罠にも似たものがあります。
互いの顔が見えないがゆえに、つい言葉が乱暴になる人が多いからです。
さらに誰かを批判する人間に限って、自分は何もしていないことも指摘されています。
暇だから、誰かの行動が目に付くのです。
自分の人生に向き合って全力で生きている人は、他人の批判に時間を使いません。
限られた人生の中に、そんな暇はないと思っているからです。
批判する人、一方的な説教をする人たちは、実は何もしていません。
立派そうなことをいうのは、誰にでもできます。
本当に難しく勇気がいるのは、行動することの方です。
全力で頑張っている人たちを、何もしない批判者が潰してしまう。
小さな弱みを見つけて徹底的にたたく。
これが日常的に、今まで以上に広い範囲で行われています。
糾弾者の正体
昔の時代は良かったとか
今の若者は駄目だとか
いつの時代にもよくいる大量生産型普通のオッサン
出典: Witch/作詞:Fukase 作曲:Fukase,Nakajin
では、批判者、糾弾者の正体は一体何者なのでしょう?
ここで、真実の一端が明かされています。
上記の批判は、非常によく聞くフレーズです。
憤っていると、「自分たちもそう言われてきた」という人に出会います。
いわれて悔しかったから、頑張ったとい発言する人さえ。
彼らは自分がされて嫌だったことを、また次の世代にしているのです。
他の選択肢はなかったのでしょうか。
例えば、自分たちがされて嫌だったことを、次の世代には持ち越さない。
そういう行動もとれたはずです。
結果として、これを実行した人はごく少数だったのでしょう。
現在も、大多数の人が同じ批判を繰り返しながら生活しています。
変わる覚悟があったのは一部の人だけでした。
自分たちが味わった苦しみを、次の人たちも味わえばいい。
そんな負のループが、大多数の合意によって繰り返されています。
正論で殴られた人々
殺しよりも非難される人々
こんなの皆やってんj
あ、間に合わなかった
出典: Witch/作詞:Fukase 作曲:Fukase,Nakajin
目まぐるしく更新される情報社会の中で、被害を受ける人たちは増え続けています。
中には冷静に見れば、「そんなに批判されること?」と首を傾げたくなるものも。
しかし、批判はなくなりません。
どうやら、みんな言い訳をしているようです。
入力も追い付かないほど、大量の言い訳が溢れています。
正しいことは何?
頭空っぽで踊ろうよ
それのが僕等と同じでしょう?
この際、魔女も踊ったらどうだい?
出典: Witch/作詞:Fukase 作曲:Fukase,Nakajin
考えれば考えるほど、難しそうに見える問題です。
開き直る考え方も、あるにはあります。
大衆に迎合し、少数派であることをやめてしまうのです。
そうすれば魔女狩りに遭うことも、批判されることもなくなるかもしれません。
自分が批判する側に回れば、今までの鬱憤を晴らすこともできるかも。
考えるのを放棄した人たちが、何も考えないまま「大多数」に加わっていきます。