歌詞を解釈「ゼロショウウオ」は何を物語るもの?
さて、いよいよ歌詞の解釈に入っていきます。
表現されているのは「自分を受け入れる辛さと素晴らしさ」だとのこと。
気になってくるのは、どうして「サンショウウオ」ではなく「ゼロショウウオ」なのか。
タイトルが何を物語るのか、もちろんその答えも歌詞の中に込められていました!
仲間外れにされる主人公…モデルは「みにくいアヒルの子」
1匹の真っ白なオタマジャクシがいた
ただ奇妙にどっしりと外鰓が残ってる
水使いの呪いとからかい笑われる
“醜いカエルの子”そう呼ばれてるんです
出典: ゼロショウウオ/作詞:斉本佳朗 作曲:斉本佳朗
カエルの子供のオタマジャクシは通常は黒い身体をしていますが、曲の主人公は一匹だけ真っ白な身体をしています。
この曲のモデルになっているのは、デンマークの童話「みにくいアヒルの子」だとのこと。
この童話でも、一匹だけ異なった姿をしたアヒルの子が周りからいじめられる描写がありましたね。
最終的にこのアヒルの子は白鳥の子供だったというオチなのですが、この曲の主人公も本当はカエルの子ではありません。
外鰓が張っているのは、サンショウウオの子供である証拠。
「水使いの呪い」と言われているのは「そんな姿じゃカエルみたいに陸に上がることは出来ないぞ」のような意味合いでしょう。
当の本人は自分はカエルの子だと思っているのですから「これでは自分は立派な大人になれない」と卑屈になってしまいますね。
これは人間だって同じ。若い頃は特に周りと違うと不安を覚えるものです。
花みたいに美しく咲いたって
花よりも高く跳べず
出典: ゼロショウウオ/作詞:斉本佳朗 作曲:斉本佳朗
サンショウウオの子供の外鰓が張った様子は可愛らしく、まるで花が咲いているようにも見えます。
しかし頭上高く木の上に咲いている花には、主人公がどう頑張っても届きそうにはありません。
そして花は「奇麗だ」と言われるのに、自分は「醜い」と言われる。
これは作詞を担当した斉本が学生時代に抱えていた想いを表したものだといいます。
自分は父や母の子供であっても、父や母のように高く跳ぶことが出来ない。
彼がこう思ったのはお父さん、お母さんを尊敬していたからこそ。
なんとも歯痒い想いですが、家族への尊敬が見え隠れすることはファンとしては微笑ましくもあります。
劣っていても未来への希望を捨てない
あの晴れた星のアイデアは
既に広がり始めている
遥か遠くに沿った都市のオーロラに
僕は誰よりも夢みていた
Hello bravo
Hello bravo
出典: ゼロショウウオ/作詞:斉本佳朗 作曲:斉本佳朗
「星のようにキラキラした存在になれたら」
「いつかあのオーロラに辿り着けたら」
主人公が美しいものに憧れるのは「醜い」と周りから言われるからでしょう。
しかしここで胸を打つのは、周りと同じで居たいというのではなく、それよりずっと突き抜けたいという想いが歌われているところ。
主人公は輪の中から省かれながらも、立派に成長する自分を諦めず夢見ていたのです。
「bravo」は相手を褒めるときに使う言葉。
そしてこれは未来の自分に向けられたもの。
この先に素晴らしい未来が待っていることを期待しているのですね。
同じようには成長できなかったけど
上手く跳ねれないように前脚から生えて
水使いの魔法は両生への戒めです
泡みたいに 美しく浮かんでって
ファビュラスのように消える
出典: ゼロショウウオ/作詞:斉本佳朗 作曲:斉本佳朗
上手く跳ねられない脚の生え方をするのも主人公がカエルの子でないなら当然。
しかしその真実がわかっていない以上、また笑われ者になることは必至です。
ファビュラスは「伝説的」のような意味合いの言葉。
「成長すればカエルのようになるのでは」と思っていた主人公の期待が儚く散った様子を表しています。
憧れた鳥のアイデアは
僕を動かし始めている
遥か遠くに沿った都市のオーロラは
僕を誰よりも夢みせた Ah Ah
出典: ゼロショウウオ/作詞:斉本佳朗 作曲:斉本佳朗
「頭上を行く鳥のように飛べたら、オーロラにだって届くかもしれない」
いつかオーロラを間近で見たいという主人公の想いが加速していきます。
例えカエルのようには成長出来ないとしても、もっと高く飛べる存在に。
ここでも主人公の諦めない想いが胸を打ちます。