途中で打ち砕かれた?
ダブルで大ヒットの経緯がすご過ぎる
夢を見ている途中で目が覚めると、決して爽快な目覚めにはなりません。
私は大量の美味しそうな料理が出てくると、そこで目が覚めるという体験を度々したことがあります。
どんな闇を抱えていたのかは自分でも分かりませんが、目覚めた時はストレスレベルがマックス。
今は見ることが無くなりましたが、一度は満腹になってから目を覚ましたいと思う日々が続きました。
1981年11月にリリースされた「夢の途中」も、夢が突然終わってしまうような出来事に巻き込まれました。
1981年12月19日、全国東映系で公開された『セーラー服と機関銃』の主題歌は、当初、来生自身の歌唱で話は進められ、レコーディングも済んでいた。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/来生たかお
映画でも来生たかおさんの歌声が流れることが、ほぼ決まっていたようです。
アルバム「夢の途中」のはにかんだ笑顔のジャケ写は、武器である機関銃とはミスマッチ。
でも楽曲の素晴らしさと歌声に軟弱な面はありません。
優しいだけではない、どこかで突き放して弱さを取り払うように歌うスタイル。
やはり姉である来生えつこさんの歌詞を、リスペクトしているからだと思います。
2つのタイトルでインパクトを大に
大きな力には逆らえない?
監督の相米慎二により同映画の主演女優・薬師丸ひろ子が歌う発案がキティ・フィルム代表の多賀英典になされた。好評だったシングル「Goodbye Day」に続く楽曲として、プロデューサー・多賀英典と共に姉弟自身もヒットを予感しており、ここで勢いに乗りたいと考えていた最中であったため、大騒ぎになった。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/来生たかお
来生たかおさんは1976年10月に「浅い夢」というアルバムでデビューをしています。
「夢の途中」が世に出る1981年の5年前でした。
5年間は期待をされつつも地道な音楽活動が続きました。
この間の楽曲提供の実力を認められて、映画主題歌の仕事が舞い込みました。
でも映画は配給会社と監督があって成り立つエンタティメント。音楽に関しても意見が出るのも仕方ありません。
来生は楽曲のみ残して歌手としては下ろされることになった。この件で、たかおの姉でもある作詞者の来生えつこが激怒し、あわやキティ・レコードからCBSソニーへ移籍寸前までいった。それを引き止めるため、多賀が「両方ともヒットさせる」と宣言し説得した。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/セーラー服と機関銃_(曲)#経緯
良い作品にしたいと思う気持ちが
組織が大きくても発言力を持つ人がいても、現場を動かすのはやはり人間です。
こんなエピソードも2つのタイトルを生み出す原動力となりました。
多賀は東映側に押されて承諾したものの、薬師丸が来生のファンであった事もあり、それぞれが「セーラー服と機関銃」「夢の途中」としてリリースする“競作シングル”というかたちで決着を付けた。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/来生たかお
鶴の一声と好きなアーティストへのシンプルな思いで、2つのタイトルが同時進行することになったのですね。
現場の様子は今ならドラマの一場面のように感じられます。
言葉を選んで詞を練り・納得いくメロディーを作り・自分自身が歌うはずだった来生さんサイドは簡単に返事出来ませんよね。
結果的には「セーラー服と機関銃」は86.5万枚、「夢の途中」は40.5万枚を売り上げる大ヒットになりました。
英断によって誕生した作品は、映画史上・音楽史上ともに大きな足跡を残しました。