冒頭フレーズは「引き気味のカメラアイ」
ここからはわかりやすくするために、意識している主体を「僕」、ドッペルゲンガーを「ボク」として記述します。
対語の中に揺れる自我
優柔不断な感情 空色透明な少年
わかってる わかってないな
その真ん中に僕はないな
隠しては覗き込んで そこには知らぬ顔が
抱えては吐き出す愛情 視界は最高さ
出典: ドッペルアリー/作詞:EVE・ナナヲアカリ 作曲:EVE・ナナヲアカリ
冒頭でのカメラアイは少し引き気味です。
「優柔不断な感情」と「空色透明な少年」は、「僕」と「ボク」の対比であり、体言止めの「少年」かもしれません。
その曖昧さに答えるかのように、「わかってる」、「わかってないな」という、了解、打ち消しが続きます。
「その真ん中に僕はないな」は「優柔不断」と「空色透明」、「わかってる」と「わかってないな」の間に僕はない。
つまり、実体の「僕」か虚像(=ドッペルゲンガー)の「ボク」のいずれかしかないという表明です。
「僕」と「ボク」の視線
「隠しては覗き込んで」というのは、「僕」と「ボク」の相反する行動です。
「隠し」、「(覗き込んで)見つけた」のは「知らぬ顔」。
「知らぬ顔」は恋人の存在、恋敵、あるいは「僕」と「ボク」の互いの顔を指しているのかもしれません。
「抱えて吐き出す愛情」も、インとアウトの対をなした表現です。
ただし、これはどちらも「愛情」を修飾しているので、主体は「僕」なのか「ボク」なのかが判然としません。
曖昧模糊とした状態で、なかば自棄のような自己肯定で発せられるのが「視界は最高さ」という台詞です。
分裂した「僕」と「ボク」が互いの世界を見ているから、こんなにも世界ははっきりとわかる・・・
MVではシーンの至る所に「プロビデンスの目」のようなマークが描き込まれています。
これは「僕」と「ボク」の互いの視線、あるいは「超越的な視線」を暗示しているように思います。
合わせ鏡の「僕」と「ボク」
ハリボテの「I」をちょーだいちょーだい
満たされるまで ちょーだいちょーだい
勘違いで生きてる僕は
視/聞 飽きた セリフを 無限にリピート
出典: ドッペルアリー/作詞:EVE・ナナヲアカリ 作曲:EVE・ナナヲアカリ
歌詞の文脈から考えると、ハリボテの「I」は「ボク」というドッペルゲンガーを指しているようです。
しかし、音だけで聴くと「愛」のようにも「アイ」(=自分)のようにも解釈できます。
「虚構の愛」、「虚構の自分」の両方の輪郭を曖昧にして歌いたい気持ちが伝わってきます。
そういう曖昧さが、次のおねだりのようなフレーズで活きてきます。
満たされるのは「愛」のようでもあり「アイ」(=自分)のようでもあります。
「勘違いで生きてる僕」という言葉には、「愛」や「自分」に無自覚な「僕」への苛立ちや後悔の念が感じられます。
「愛」も「自我」も満たされていない合わせ鏡のような「僕」と「ボク」。
ボクらは無限ループのように無い物ねだりの言葉を繰り返すばかりです。
サビのポイントは類似した音韻のビート
だいたいこんな感じで生きて
二人は人生の上で嗤う
心の裏側で動く 劣等/愛憎/感情線を 隠して
痛い痛いなんて泣かないから
目を離さないでくれよ
それは さながら イケナイコトでしょうか
出典: ドッペルアリー/作詞:EVE・ナナヲアカリ 作曲:EVE・ナナヲアカリ
「感情線」?「環状線」?
サビの部分は、ちょっと格好良く投げやりな言葉で諦念とも肯定ともつかない微妙な感情表現になっています。
「だいたいこんな感じで生きて」というフレーズはとても適当に感じますが、少しの照れ、自虐を感じます。
「二人は人生の上で嗤う」は「ボクらはレールの上で嗤う」と唄われています。
人生をレール(線路)に喩え、決められた道を決められたように生きるしかない僕への嘲り、哀れみの嗤いです。
「劣等/愛憎/感情線」のくだりは、類似した音韻を音符に載せるところが粋に決まる気持ちの良いフレーズです。
レール(線路)と来たわけですから、「環状線」と手相の「感情線」を上手く掛けていることがわかります。