デビュー30年を迎えた徳永英明
徳永英明は1986年1月、『レイニーブルー』でデビューしたシンガーソングライター。
生まれ故郷の福岡から上京し、アルバイトをしながらオーディションを重ねた末にデビューを果たします。
彼の父親とは25歳まで目が出なければ就職すると約束しており、見事24歳でデビューしました。
そんな徳永英明の名が世に知れ渡ったのが、4枚目のシングル『輝きながら…』。
CMソングとしてタイアップされたこともあり、デビュー後初のヒットソングとなりました。
その後も『夢を信じて』や『壊れかけのRadio』などのヒットソングを生み出し、安定したヒットソングを制作します。
さまざまな病と戦い続けての音楽活動
音楽活動が軌道に乗り、すっかりトップアーティストの仲間入りを果たした徳永英明でしたが、1993年には声帯ポリープ手術のため活動を一旦休止。
2001年には「もやもや病」と呼ばれる脳血管障害を患い、活動休止を余儀なくされます。
病は2002年に克服しましたが、デビュー30周年である2016年には予防のための手術を行っており活動を休んでいます。
更に2016年には急性咽頭喉頭炎を患っており、30周年記念ツアーの一部公演延期を強いられています。
徳永英明独特の優しい風合いの歌声は多くを魅了していますが、反面さまざまな病と闘い続けつつも音楽活動をしている姿はたくさんの人を勇気づけています。
徳永英明の代表曲『レイニーブルー』
徳永英明の歴代ソングで代表曲と言えるものは数知れず、皆さんもそれぞれ好きな曲があるはずです。
そんな徳永英明ソングを語る上では外せないナンバーの、『レイニーブルー(Rainy Blue)』。
デビューシングルとして誕生した同ナンバーは、1986年1月にリリースされています。
実は1997年にも再びシングルリリースされており、こちらは『Rainy Blue 〜1997 Track〜 』と題しています。
他にも『レイニーブルー』は徳永英明の歴代アルバムやベストアルバムにも定番で収録されており、ファンの間でも代表曲として名高いです。
『レイニーブルー』の制作背景とは
徳永英明のデビューを飾った『レイニーブルー』。
なぜ彼を語る上では外せないナンバーなのかというと、その制作背景にあります。
『レイニーブルー』の作詞の名前を見ると「大木誠」と記されているのがわかりますが、楽曲が生まれる過程で彼の存在はとても大きいです。
デビュー前の徳永英明は軽井沢でバイトをしており、そこで大木誠と出会っています。
同じ音楽活動をしていることで息も合い、二人は共にバンドを組むことに。
バンド活動の中で大木誠はある楽曲を制作し、それを参考に徳永英明が自作した曲が『レイニーブルー』なのです。
もともと徳永英明は作詞が苦手だったようで、大木誠の楽曲から大きなリスペクトを持ちつつ同ナンバーを作っています。
魅力が詰まったナンバー『レイニーブルー』
『レイニーブルー』が誕生した裏話で、楽曲がより身近に感じるようになりましたね。
しかし同ナンバーにはさまざまな魅力が詰まっているのも、愛される一曲として挙げられる理由です。
そこで『レイニーブルー』の魅力をまとめてみました。
切なさがにじみ出るサウンド
『レイニーブルー』の魅力の一つに挙げられるのが、そのサウンドにあります。
イントロから歌い出しまでは電子ピアノサウンドのメロデーですが、ここから既に切なさがあふれ出ているのがわかります。
サビ部分ではドラムなどの他の音が加わり楽曲を盛り上げていきますが、曲の雰囲気を決して崩していないのがポイント。
全体的にしっとりとした質感がありながらも、終始切ないサウンドで心がギュッと締め付けられます。