アイドルといえば、所属事務所や専属のマネージャーが売り込みに関して主導権を握っていますが、当時はちょっと違っていました。
この当時の歌手の売り込み方は、作曲家や作詞家が所属事務所とチームを組んであれこれと売り込み方を考えるやり方でした。
チームリーダーは平尾昌晃!
小柳ルミ子も当時はナベプロに所属してマネージャーも付いていましたが、やはりチームリーダーは作曲家でした。
その作曲家とは、五木ひろしも並行してプロデュースする売れっ子作曲家で、若くて本人も歌を歌う平尾昌晃です。
惜しくも昨年お亡くなりになられましたが、公の告別式で小柳ルミ子が故人に捧げるべく歌った曲も「瀬戸の花嫁」でした。
余談ですが、平尾昌晃が売れっ子作曲家になる少し前に結核で入院していたことがありました。
偶然にも筆者はその病院に通ったことがあり、当時のお話をお年寄りからいろいろ聞かされた記憶があります。
ちなみにその病院は諏訪湖の西北の山腹にある塩嶺病院です。
眺めはいいのですが街から離れていて寂しい場所にあり、現在は療養所ではなく普通の総合病院になっています。
平尾昌晃は、この入院期間にじっくりと作曲家への準備を整えていたのでした。
花嫁の話のきっかけは?
小柳ルミ子が売れ始めのころは、今では想像できないほどの人気で、本人曰く「結婚なんかしないでずーっと歌い続けます」と言っていたそうです。
これを聞いた平尾昌晃と、作詞家の山上路夫が、ちょっと茶目っ気を出してアイデアにしたのが、「歌でお嫁に出しちゃおう!」でした。
ちなみに作詞家の山上路夫は、水戸黄門の歌「じ~んせーいー……」を作詞した人といえば皆さんもわかっていただけるでしょうか。
瀬戸内が選ばれた理由とは?
平尾昌晃と、山上路夫が、「歌でお嫁に出しちゃおう!」作戦を展開するにあたって重要視されたのが、「ディスカバージャパン」でした。
「ディスカバージャパン」路線でご当地ソングを作るには、具体的な地名を決めなくてはなりません。
当時のスタッフが集まっていろいろ協議しましたが、結果決まったのが、「瀬戸内あたり」という漠然としたものでした。
平尾昌晃と山上路夫のどちらかが言い出しっぺといわれていますが、一説では平尾昌晃の発言に山上路夫が同調したともいわれています。
曲名の「瀬戸の花嫁」はどうやってできたのか?
次の曲のコンセプトの中核は、「ディスカバージャパン」路線で「瀬戸内あたり」、そして「お嫁に出しちゃおう!」の3つです。
この時点で「瀬戸の花嫁」って決まるんじゃないの?と思いますが、まあそれは結果論で、実際は様々に紆余曲折していたらしいです。
次の曲の歌詞として作詞家の山上路夫が打合せの後に作ってきた作詞のタイトルが、「瀬戸の夕焼け」と「峠の花嫁」の2作品でした。
これを見た小柳ルミ子のマネージャーが二つを合わせて「瀬戸の花嫁」でどうですか?といったのがきっかけでできたといわれています。
素人のひらめきが時に大ヒットを生む典型的な話ですね!
歌詞の解説はこちら!
ここからは歌詞をじっくり見て、当時の情景をかみしめてみることにしましょう!
まずは1番からです。
瀬戸は日暮れて 夕波小波
あなたの島へ お嫁にゆくの
若いと誰もが 心配するけれど
愛があるから 大丈夫なの
出典: 瀬戸の花嫁/作詞: 山上路夫 作曲: 平尾昌晃
この歌詞は、現代ではさほど意味がないように思える内容ですが、当時はかなり最先端の考えを表す歌詞でした。
この曲がリリースされたのは昭和47年で、終戦から27年経ったとはいえまだまだ相手の家に嫁ぐという風習が色濃く残されている時代です。
「あなたの島へお嫁に行く…」この言葉が当時の感覚を忠実に表していますが、「愛があるから大丈夫…」という言葉で恋愛結婚を暗示しています。
当時、ほとんどがお見合い結婚だった時代に、恋愛結婚をおおらかに歌った歌詞は、若者の心をがっちりとつかんだのでした。
「若いと心配だ」という部分も、戦前、戦中派がよく使う一般的な当時の批判の声です。
でも、障害がある方が恋愛は盛り上がるというのは、いつの時代も変わらないようですね(笑)。
続いてサビの部分に移りましょう。
段々畑と さよならするのよ
幼い弟 行くなと泣いた
男だったら 泣いたりせずに
父さん母さん 大事にしてね
出典: 瀬戸の花嫁/作詞: 山上路夫 作曲: 平尾昌晃
この部分で家族構成の一部が見えてきます。
歳の離れた弟がいるということは、長女ということなのでしょう。
兄妹ではなく姉弟という関係は、小柳ルミ子の背が高くきりっとした美人というイメージにピッタリです。
また、「男だったら…」という歌詞は当時の漫画でもよくつかわれたセリフなので、当時の風潮だな~と思ってください。