福山は「零-ZERO-」の歌詞を書くに当たり、『ゼロの執行人』というタイトルと「降谷零」という人名に着目し、「ゼロ」と「零」の違いを考えたと言います。

「ゼロ」とは数字の「0」であり「無」を表すもの。しかし「零」という日本語はまったくの「0」を表すのではないこともあります。

「零」の曖昧さと「ゼロ」の厳格さの対比。それはゼロ=警察庁警備局警備企画課=公安警察と降谷零との対比でもあります。

公安警察の正義は降谷零の正義なのか。両者が異なるのであれば、公安警察の正義と降谷の正義はどちらが正しいのか。

『ゼロの執行人』の物語と降谷零=安室透の人物像とに迫る歌詞です。

真実はいつもひとつ
でも正義は
そう涙の数だけ…

僕は暗闇に迷い込み
善悪の刃 握った
振り翳した刃は
すぐ自分に斬り掛かってきたんだ

そう僕には
「善」も「悪」も
「間違い」もある
僕を騙す僕もいる…

いま僕が描く正しさで
描く理想で
君を脅かすもの
悲しませるものから

誰も傷付かず
誰も傷付けないまま
君を守ることなどは
出来ないとわかってる
「完全なる正しさ」など

無(ゼロ)なんだよ

出典: 零-ZERO-/作詞:福山雅治 作曲:福山雅治

江戸川コナンの名台詞からはじまる歌詞は、真実と対比した正義を語ります。「真実はいつもひとつ」というフレーズは福山が『名探偵コナン』原作者・青山剛昌の許可を得て使用しています。

「真実はいつもひとつ」、しかし正義はひとつではない。それがまず提示されます。

その上で、「僕」は暗闇で「善悪の刃」を手にします。「僕」は降谷=安室であると考えてもいいし、架空の人物と考えてもいいし、歌詞を読む人自身と考えてもいいでしょう。

「善悪の刃」とはどんなものでしょう。「善の刃」とも「悪の刃」とも違う「善悪の刃」です。善と悪を切り分ける刃でしょうか。善にも悪にもなれる刃でしょうか。

それを振りかざせば自分に向かってきます。暗闇で対峙する相手は自分自身であるということです。

一人の人の中には善も悪も同居していて、いずれか一方のみで存在することはありません。そして間違いのない「完全なる者」もまた、存在しません。

自らが抱く理想、それは正義と言い換えても差し支えないでしょう。それによって自分にも他人にも傷をつけることなく「君」即ち大切な存在を守り得ることなどないと、ここでは言い切っています。

「完全なる正しさ」、つまりまったく間違いのない正義は「無」である。1コーラス目では絶望に近い現実を明示しています。何より絶望的なのは、これを「僕」自身が分かっているということです。

善も悪も、自分自身を騙す自分さえもが自分の中にはいて、同時に完全なる正義などないと分かっている。それでも「僕」は正義を行わない訳にはいかないのです。

このもどかしい状況こそが「僕」が迷い込んだ「暗闇」ではないでしょうか。『ゼロの執行人』劇中の降谷=安室も正義の断行に際し、心情の揺らぎが垣間見える部分があります。

1コーラス目で絶望的な現実を見た「僕」はこの後、現実に一条の希望を見ることができるでしょうか。下記リンクから後半の歌詞をご確認ください。

できることなら『ゼロの執行人』をご鑑賞頂き、福山が「零」に託した正義の可能性を物語とともに読み解いて頂ければと思います。

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まとめ

【零-ZERO-/福山雅治】劇場版「名探偵コナン」主題歌の歌詞に迫る!コラボしたライブ動画が見たい☆の画像

福山自身が脚本を読んで降谷零=安室透に感情移入して歌詞を書き、ガットギターとトランペットで情熱的に奏でるフラメンコ風の曲をつけた「零-ZERO-」。

『名探偵コナン』のために書かれた曲の中でも最も作品に迫る名曲となる兆しが既に見えています。まだ聴いていない人はすぐにでもお聴きください。

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