いや、真似事ではなく、本物の才能!
この歌詞の1行目に対して、ファンの総ツッコミが入る絵が浮かびます。
「エッジの効いたサウンド」の「エッジ」の部分だけをストイックに追求したサウンド。
それなのにキャッチーでポップ、しかも達観した詩世界を展開して、リスナーを幸せの渦に巻き込んでいます。
真似事でこれほどの偉業をさらっと成し遂げられるわけがありません。
それでも才能を誇ったり、おごったりせず、謙虚な姿勢を保っています。
リスナーの気持ちを汲み取って、笑顔を絶やさないリーガルリリー。
後で再び登場する「影」という印象的な言葉にも注目しておきましょう。
2番の歌詞を見よう!
儚い幸せ
もしかしたら
これが最後の恋かもしれなくて
最後の声かもしれなくて
最後に
気付いてしまうかもしれない
出典: ハンシー/作詞:たかはしほのか 作曲:たかはしほのか
人生のラストに聴いたのはあの曲だったと、生きている間に認識することはなかなかできません。
ところが恋愛なら、生きている間にラストを認識できる可能性があります。
例えば結婚相手がラストの恋の相手とか、もうこれほど思いが高まることはないという意味でラストの恋とか。
とくに大好きな相手と別れたとき、何らかの理由で会えなくなったときに認識しやすいでしょう。
これがラストと認識しても、実際にそうならなかった時は喜びが増します。
ところが本当にラストになってしまったら、幸せを失った悲しみに暮れることになるわけです。
意識の変化によって、ポジティブな感情に満たされることもあれば、ネガティブになる可能性もあるということ。
そう考えると、ますます幸せは儚いと気づくのではないでしょうか。
日々の幸せを守りたい思い
無意識にやってくる
幸せはいつだって
無意識に必死にただ守った
出典: ハンシー/作詞:たかはしほのか 作曲:たかはしほのか
普段は気にも留めていない何気ないことに注意を向けると、確かに幸せだらけだったと認識できます。
感謝しかない。
そんな心境になるでしょう。
そもそも「ありがとう」の語源は「有難い」です。
「有る」ことが「難しい」、つまりなかなか無いことを表しています。
「ラストかもしれない」と認識したところで、実際にはラストにならない。
そう見くびってしまうと、せっかくの意識の変化が台無しになってします。
そのため「日々の無意識の幸せ」を意識したら、しっかり守ることが大切!
日々の幸せを守りたいのは、幸せが「なかなか無い」ことに気づいたから、という思いが伝わってきます。
ラストの歌詞を見よう
嘘なの?
こうして僕たちは
最も神聖な嘘をつくのでしょう
天才のふりした
私はずっと笑ってここに佇む
君の肌に触れる
出典: ハンシー/作詞:たかはしほのか 作曲:たかはしほのか
この曲を聴くと価値観がひっくり返ってしまうような素晴らしい歌詞です。
ところがラストのサビになって「嘘」という言葉が出てきます。
またしても「え?」と絶句した方が続出!といった場面かもしれません。
「日々の無意識の幸せ」を守りたいという素敵な話は本音ではないの?
才能があるように装う「真似事」は謙遜ではなかったの?と疑念が渦巻いたことでしょう。
ご安心ください。
これは歌詞という創作です。
ノンフィクションに近い即興演奏(アドリブ、インプロヴィゼーション)でもなく、完全にフィクションの音楽。
リアルな日常会話のように思ったことや本音をそのまま表現せず、しっかり作り込んでいるという意味でしょう。
「僕たち」はリーガルリリー、「私」はたかはしさんの自我、「君」はリスナーに置き換えられます。
卓越したサウンドに、達観した歌詞を乗せることで、異彩を放つこの曲。
ただし、あくまでも創作というエクスキューズ(弁明)が入っています。
「無意識の幸せ」を意識することによって、日々の幸せを守りたい。
これはリーガルリリーとして提示する、この曲のメッセージなのです。
リスナーに寄り添い、幸せを感じたり守ったりする方法を伝えているだけ。
達観した存在になりきって上から目線でお告げをしているわけではなく、自我のある人間の創作です。
そう断りを入れているのでしょう。
「影」の意味
何にももう間違ってない
一晩でできた考えは
朝の絵にきっとなるさ
ほら 窓辺に咲く私の気温
影の記憶。
影の意識。
影の呼吸。
影の命。
出典: ハンシー/作詞:たかはしほのか 作曲:たかはしほのか
この曲に対する思いがきちんと説明されたので、疑念は消えたでしょう。
どうやら夜の間に作られた、この曲。
徹夜して、朝にはまとまり、歌詞として創作が完成するという流れです。
恐らくたかはしさんは絵を描くような感覚で、作詞をしているのでしょう。
完成した歌詞の片隅には、たかはしさんの自我も入っているということ。
■自我
哲学におけるdas Ich(私とも。以下自我とする)は自己意識ともいい、批判哲学および超越論哲学において、自己を対象とする認識作用のこと。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/自我