3連目の歌詞。
沖縄戦でアメリカ軍が用いた銃弾・砲弾の量は凄まじいものでありました。
銃弾・砲弾・手榴弾・ロケット弾・機関銃弾。
いずれも装備の乏しい日本軍を遥かに凌駕する弾薬の量で「鉄の暴風」とも呼ばれています。
主人公の少女の父親はこの砲弾に撃たれて絶命しました。
日本全土で空襲被害などがあった頃ですが、沖縄は激しい「地上戦」を経験します。
降伏を先送りする軍部の意地のためにたくさんの人々が奪われるはずのない命を失いました。
民間人も戦闘に駆り出される
沖縄戦では軍人と軍人が戦うという近代以降の戦争のあり方と違う様相を呈していました。
民間人も軍人の補充に駆り出されてアメリカ軍と戦います。
民間人の中にはまだ年若い少年も戦地に駆り出されました。
17歳から45歳の男子が招集されましたが、実際にはもっと若い少年を含んでいたともいわれます。
また女子生徒も衛生要員として駆り出されました。
有名な「ひめゆり学徒隊」です。
軍人同士の戦闘行為という近代の戦争の常識さえも通用しなかったのが沖縄戦の現実。
端的に表現すると「地獄」です。
沖縄本島に上陸したアメリカ軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦闘は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/沖縄戦
いまは風が吹き抜けていく平和なさとうきび畑。
しかし戦時中はこうした「地獄」のような光景が続いていました。
忘れてはいけない戦争の話。
1945年8月15日
日本の敗戦
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
そして私の生まれた日に
いくさの終わりがきた
夏の陽ざしの中で
出典: さとうきび畑/作詞:寺島尚彦 作曲:寺島尚彦
4連目の歌詞。
1945年8月14日、大日本帝国はポツダム宣言を受諾し全面降伏します。
昭和天皇の玉音放送が日本全土に響いたのが翌8月15日です。
少女は1945年8月の生まれ。
しかし少女が生誕するそのときすでに父親は亡くなっていました。
勝ち目など最初からあるはずもない戦争に軍部が前のめりになり開戦。
マス・メディアや国民も戦争がもたらす集団催眠のような空気に染まりきっていました。
一種の洗脳状態に侵されていたのです。
玉音放送が与えた衝撃
玉音放送、大日本帝国の全面降伏が国民に与えた衝撃は計り知れません。
当時の皇国少年の中にはその後一時記憶をなくすほどの衝撃を受けたと証言する人もいました。
戦時中を「灰色の時代」とよく呼びますが、実際の記憶がモノクロームであると不思議がる人もいます。
自分の記憶がカラーで再生できるのは戦後からだというのです。
敗北を抱きしめて
戦後の日本国は戦時中に「鬼畜米英」と呼んでいた連合国、とりわけアメリカ合衆国の占領体制になります。
アメリカ合衆国は戦後の日本に民主主義と基本的人権などを徹底して教えました。
日本人の価値観もガラリと音を立てて変化していきます。
人々は戦争の敗北とともにやっと手に入れた平和を抱きすくめるように新しい時代を生き始めるのです。
「さとうきび畑」の主人公はそんな戦後の空気の中で生まれ育った第一世代になります。
戦災で親を亡くした子どもたち
母の子守歌の記憶
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
風の音にとぎれて消える
母の子守の唄
夏の陽ざしの中で
出典: さとうきび畑/作詞:寺島尚彦 作曲:寺島尚彦
5連目の歌詞。
少女は父親を亡くしました。
不幸中の幸いというべきか母親は健在です。
母に背負われて子守唄を聴いた微かな記憶。
一方で戦後、両親とも戦争で亡くした「戦災孤児」が社会問題になります。
親の愛を知らずに育った子どもたちが大勢いたのです。
施設に収容されるのを嫌い、駅などで寝泊まりし、その結果、餓死してしまう子どもたちもいました。