この世のあらゆるものが一回限りの生命を生きています。
人生の貴重さは一回性だからこそ輝くのです。
毎年訪れる春夏秋冬のそれぞれの季節も実は一回性から免れません。
今年の春は去年の春とは違います。
今年の秋は去年の秋とは違うのです。
季節というものは地球そのものの躍動する生命の発露。
地球自身が生きているために同じ季節は巡ってきません。
季節は生きて、やがて逝ってしまうものなのです。
さだまさしは畳み掛けるように問い続けます。
ここでも万葉人の感性は答えるでしょう。
春も秋も去る時に死に絶えるものだと。
人間は夥しい死の累積を軽く見せるために土葬から火葬へと葬儀の方法を変えます。
実体を遺して死んでゆくには墓地が足りません。
遺体の腐敗はさらに死を呼び込む伝染病を招くでしょう。
灰にしてしまうことによって死の質量は軽くなってゆきます。
しかし追憶の中で死者は生きていたことを生者に想い起こさせる力があるのです。
これはその死者が一回性の中で生をまっとうしたことの証になります。
人生が一回性でなければ明日想い出してあげればよいでしょう。
しかしあらゆる生命は一回性ですから今日も想い出してあげるしかないのです。
稀少な生命を今の私たちは生き続けています。
季節もまた同様だからこそ人は去年の夏は酷暑だったけれど今年の夏は冷夏だなどと認識するのです。
人生の光芒
生命は輝くもの
わずかな生命のきらめきを信じていいですか
言葉で見えない望みといったものを
去る人があれば 来る人もあって
欠けてゆく月も やがて満ちて来る
なりわいの中で
出典: 防人の詩/作詞:さだまさし 作曲:さだまさし
ここまで暗い話ばかりに終始してしまいました。
この節は生命の輝きについて語っています。
死ぬまでの僅かな瞬間に煌めく生命の秘密について書かれているのです。
救いや望みというものがないと人は毎日の生命をつなぐことも叶わないでしょう。
生きているうちには家族・友人・パートナーなどとの出会いの中で喜びも悲しみも一緒に汲み尽くします。
人間は生まれながらにしてすでに社会的存在です。
よっぽどのことがない限り絶対的な孤独というものとは遭遇せずに社会と折り合いをつけます。
これが人生における輝きであり芸術の普遍的なテーマです。
生きる歓びを識ることで生命を明日へとつなげていける。
こうした所作の繰り返しで人生は続くのです。
長い長い歴史の中で人ひとりの一生は僅かな瞬きにも満たない時間ですがその煌めきは無視できません。
月の満ち欠けにも万葉人ならば巡りくる生と死の営みを眺めていたはずです。
万物が個々に生と死のドラマを一回性の中で生きるうちに私たちの人生もそれぞれ輝きを放ちます。
苦難があるからこそ人は望み祈るでしょう。
人生がたった一回のものと悟った人こそ、その想いはより必死になるはずです。
人生の光芒。
望みや輝きといったものを信じていいのかという問いです。
しかし改めて問うまでもなく望みや輝きを信じないと生命を明日につなげられないでしょう。
それが私たちの人生のあるがままの姿です。
「防人の詩」と夭逝した夏目雅子
「防人の詩」が主題歌になった映画「二百三高地」は極右的映画という烙印を捺されました。
この記事では映画「二百三高地」が極右的かどうかの議論は横においておきます。
ただ大作であることが自己目的化してしまい長いだけで焦点がぼやけている映画というのが実感です。
死の描き方も兵士の大群が砲弾に散ってゆくだけという荒っぽいものでした。
ひとりの兵士の生命が鴻毛よりも軽かった時代を描いた映画です。
そのために大群の中で死ぬという描き方もありなのかもしれません。
しかしひとりひとりの死の重さの実感は薄くなります。
感動したという方には申し訳ないのですが間違っても日本映画の100選などに残る不朽の名作ではないです。
そんな作品ですが夭逝した夏目雅子の演技だけは高く評価されるでしょう。
しかし彼女は僅か27歳でこの世を去ります。
今、振り返ると「防人の詩」の裏の主題は実は夏目雅子の生と死ではないかと思わせるくらいです。
とはいえさだまさしも夏目雅子があれほど早くに亡くなられるとは思っていなかったでしょう。
生前は非常に明るい女性で芸能関係者の評判はすこぶるよかった方です。
希望や煌めきをたくさん身に付けて生き抜いた27年の人生でした。
夏目雅子のためにたとえ短い生命であっても人生における希望や煌めきを信じてあげたくなる。
そんな稀有な存在の女優が夏目雅子その人です。
愛や心はどうですか
すべては稀少な生命
おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか
出典: 防人の詩/作詞:さだまさし 作曲:さだまさし
クライマックスは怒涛のごとくこれまでのキャストが勢揃いします。
これまで見てきたように万葉人の感性に従うならば海・山・春・秋は死にゆくものです。
しかし人の愛や心は死ぬでしょうか。
これは新しい問いになります。
永遠の愛。
魂の普遍的な生命力。
そうしたものを人は慣用句に変えて信じ続けています。
しかし万葉人はもっと冷徹にこれらも一回性のもので死ぬのではと答えそうです。
一回性の愛だからこそ尊いものだと考えてみてはどうでしょうか。
一回性の生の追随者である心もいずれ死ぬ。
だからこそその心は稀少で煌めきを放つ光源なのだと考えてみてはどうでしょうか。
愛や心は不滅だと信じたい祈りのような想いを私たちは持っています。
しかし万葉人の感性に倣って考え直してみることも大切なことです。
故郷の死は今、限界集落という社会問題になっています。
目に見える死となるとは「防人の詩」が発表された1980年には考えられもしなかったでしょう。
今は現実が答えを出してしまいました。
それでも万物は死へと向かって懸命に生きています。
今こそ「防人の詩」の再評価を
芸術は作者より永く生きる
「関白宣言」に続き「防人の詩」でもバッシングにあったことはさだまさしを落ち込ませました。
さだまさしは「203高地戦の何を描くのか。勝ってバンザイか」と映画の音楽監督を問い詰めます。
音楽監督は同郷の山本直純です。
彼がその場を諌めてさだまさしも曲を提供しますが、結果は映画の評価に引きずられての大バッシング。
同業の音楽家や映画評論家がバッシングの先頭に立ちました。
しかし、チャートアクションは良好でオリコン・シングル・チャート2位に達します。
「防人の詩」は売れたシングルでもあったのです。
さらに今や映画とは別のものとしてこの曲を再評価することができます。
さだまさしが苦心して創作したものですから良心にあふれているのです。
映画をヒットさせるために超大作であることに固執し続けて失敗した映画人たちとは一線を画します。
宇宙・地球規模の歴史を知らずして海も山もいずれ死ぬと見抜いた万葉人の感性に目を啓いたこと。
問いかけの形式で畳み掛けるように重い問題を投げかけるさだまさしに圧倒されます。
映画は夏目雅子の美しさを焼き付けただけで廃れてゆくかもしれません。
しかし「防人の詩」はもう少し生命を永らえるでしょう。
記録する媒体との出会いで物理的には半永久的に作品が遺る時代です。
しかし本当に作品が生きるには愛されているという確証がないといけません。
「防人の詩」は愛されます。
不滅の愛はないのかもしれませんが。
さだまさし自身の生命の永さを超えて愛される可能性が充分あります。
芸術の生命力は作者よりも力強いです。
この記事は万葉人の感性に従って記事を編みました。
しかし問いかけへの答えはリスナーの数だけ別様であって構わないはずです。
静かな夜、雑念をシャット・ダウンできる環境で「防人の詩」と向かい合ってみてください。
確たる答えは出せなくても人生において得難い体験ができます。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。