子供じゃないから孤独になれないの 心の場所をさわって
「子供ができるまで孤独に耐えなさい ここは地獄なんだから」

出典: セーラー服を脱がないで/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬

大人になればなるほど強くなる孤独のアンテナの感度

人間関係が子供のころに比べて広がる一方で、希薄になっていくということもあります。

「一人はイヤ」

「常に孤独なような気がする」

大人になる前には感じなかった孤独への恐怖感はどうしたら消えるのか、その答えをここでは説いているのです。

孤独への恐怖感を拭えるのは、自分自身の分身だけ

他の誰かがどうにかできるものではないのです。

耐えがたい世界から救ってくれるのは、自分に似た、決して自分ではない存在ということなのでしょうか。

子供でいたくない、だけど大人にもなりたくない。

強い孤独感の中で進めもせず、引き返ることもできない、まさに少女がいる場所は地獄そのものなのです。

大人になるって

アーバンギャルド【セーラー服を脱がないで】歌詞の意味を考察!なぜ謝るの?セーラー服が象徴するものとはの画像

思春期末試験の答案血まみれだわ
振り向いたら負けなの涙が塩に変わるわ

出典: セーラー服を脱がないで/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬

子供でなんていたくない。

大人になんかなりたくない。

少女の思春期はそんな苦しい葛藤の連続なのです。

自分がどうしたいのか、どうなりたいのかを自問自答しながらたくさん傷ついて、最後には大人になるのです。

そんな中で立ち止まったり、一度でも後悔なんかしようものなら時間切れになってしまいます。

少女の思春期は期間限定、一瞬なのです。

やけっぱちのマリア

アーバンギャルド【セーラー服を脱がないで】歌詞の意味を考察!なぜ謝るの?セーラー服が象徴するものとはの画像

『やけっぱちのマリア』は、1970年4月から同年11月まで『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に連載された手塚治虫の少年漫画。青少年向けの性教育を意図して書かれた。主人公の焼野矢八と対立する不良グループと、そのボスである影のスケ番とが入り乱れての学園恋愛ドタバタナンセンスコメディ作品である。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/やけっぱちのマリア

連載開始から賛否両論、様々な反響をよんだ手塚治虫の「やけっぱちのマリア」。

主人公の少年やけっぱちと、彼が「出産」したマリアを取り囲むアクの強い大人や仲間との日々を描いた物語です。

自分の存在意義、未来への不安、異性への目覚めといった思春期に葛藤を抱え込む少年少女。

そんな彼らの様をコミカルかつ過激に表現しています。

当時は子供に対しての話題はタブーとされてきました。

そんな時代の空気に一石を投じるように発表されたいわば「性教育漫画」の先駆けともいえる作品です。

ここではその「やけっぱちのマリア」をモチーフに思春期から脱却しようと試行錯誤する様が綴られています。

「やけっぱちのマリア」の詳細はこちら。

手塚治虫公式WEBサイトです。マンガについてご紹介

誰かの傷を癒して

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夢は持てないから夢になりたいの 誰かの傷をさわって
「夢になりたければナイフを捨てなさい ここは平和なんだから」

出典: セーラー服を脱がないで/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬

自分の中に希望を見出せないから、それならせめて他の誰かの希望になりたいのです。

誰かの傷を癒したり、痛みを分かちあったりすることで自分の存在意義を感じたいのでしょうか。

ただ、そうなるには人を傷つける全ての術を手放さなければなりません。

例えばそれが自分を守るものだとしても、です。

ナイフを捨てるということは、様々な恐れを捨てるということなのでしょう。

そして、恐怖を感じない世界は平穏なのです。

恐怖や恐れの正体は、大人になるということでしょうか。

大人になることへの恐怖を破り捨ててしまえば、世界は平穏なものとなるのです。

平穏な世界には、自分を守るものも、他人を傷つけるものも持たなくていいのです。

思春期からの脱皮

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明日の朝礼でみんな泣いてくれるかな
「やけっぱちのマリア様がみてる だけど だから お願い」

出典: セーラー服を脱がないで/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬

やけっぱちのマリア様というのは、自分の分身を指しているのでしょうか。

それとも、母親を指しているのでしょうか。

どちらにしても、少女の分身には変わりないのです。

思春期の子供と大人の境界線を飛び越えて、大人になった自分を友達は喜んでくれるだろうか。

喜んでほしい、と望んでいます。

そんな光景を、自分の分身もきっと見ているはずで、見ていてほしいのです。

子供でもない、大人でもない思春期の自分から脱皮をして、大人の少女の誕生を見届けてほしいのでしょうか。

いつまでも思春期の君でいて