阿久悠と筒美京平、そして松本隆
天才たちの相剋
「また逢う日まで」ほどメロディと言葉とが見事な合致をするサビは少ないです。
メロディも耳に残るし、歌詞も鮮明に覚えている。
作詞家と作曲家の理想の関係があるように感じられます。
とはいえ阿久悠と筒美京平の関係は実は複雑でした。
阿久悠は「筒美京平は軽く歌詞に魂魄を込めない松本隆と組むことが多い」というような言葉を残しています。
この言葉は筒美京平に向けた批判でもあり、松本隆へのライバル心の剥き出しでもあるものです。
「人間万葉歌」という阿久悠のBOXセットに寄せた本人のライナーノーツに書かれています。
天才は1人いるだけでも何かと厄介ですが3人も集まると戦争になるのです。
阿久悠も筒美京平も表に出ることを嫌った職人的基質で共通しています。
このふたりの共通点は他にも職業的意識の高さや膨大な作品数などいっぱいあるのです。
もう少し趣向が似ていればさらに多くの名作が世に放たれたことでしょう。
リスナーにとってはとても残念なことです。
女性もまた潔い
話者が変わる話法
また逢う日まで逢える時まで
あなたは何処にいて何をしてるの
それは知りたくない
それはききたくない
たがいに気づかい昨日にもどるから
出典: また逢う日まで/作詞:阿久悠 作曲:筒美京平
話者が女性に変わります。
男女が話者を入れ替わり立ち変わるという手法は作詞家・松本隆の十八番です。
しかし時代は1971年なのでこの頃の松本隆はまだロック畑の作詞家・音楽家。
彼が話者を入れ替える話法を取り入れた太田裕美の「木綿のハンカチーフ」は1975年の作品です。
阿久悠の方がこの話法を先取りしていたよう。
未来志向の価値観
ここで女性は男性同様にお互いのことを詮索するのはもうやめると宣言します。
お互いのことを詮索するのは昨日の仕種だとして退けるのです。
未来志向の彼と彼女の振る舞いに多くの共感が寄せられました。
すべての破局した恋愛がこのように潔い別れ方であったなら世の中から殺傷事件が減るでしょう。
男女の情念を煽る歌謡曲が多い中で「また逢う日まで」は異質です。
日音の村上司が惚れ込んだ筒美京平のメロディにも魅力は大いにあります。
ただ、この曲を他の歌謡曲と分け隔てたのは阿久悠が示した男女のメンタリティではないでしょうか。
未来志向の新しい価値観のようなものとして広く支持されたと考えます。
1970年安保闘争の敗北が色濃い時代に仕切り直しとして未来を見据える男女の姿。
阿久悠が書き直した部分こそが大衆の圧倒的な支持を得ます。
書い直す前の「ひとりの悲しみ」の歌詞を少し紹介しましょう。
原詩「ひとりの悲しみ」との比較
決定的なベクトル変換
一人がだまって いたい時には
一人はなぜかしら 話したくなる
なぜに 二人だけが
なぜに 話せないの
こうして はじまる
ひとりの悲しみが
こころを寄せておいで
あたためあっておいで
その時二人は何かを見るだろう…
出典: ひとりの悲しみ/作詞:阿久悠 作曲:筒美京平
ズー・ニー・ヴーの「ひとりの悲しみ」から2番の歌詞を抜粋いたしました。
ここではふたりが対話をしないことに「何故?」という想いを阿久悠は投射します。
ふたりが話をしないせいで悲しくひとりになってしまうのだと阿久悠は書いていたのです。
サビの部分にもまだふたりでできることをして悲しい心を埋めてみてはどうだという想いを託します。
「また逢う日まで」とは真逆か別方向のベクトルの歌詞なのです。
村上司から書き直しを懇願された際に阿久悠は尾崎紀世彦が歌う「ひとりの悲しみ」を聴かされます。
おそらく阿久悠は尾崎紀世彦の新しい声に違う運命の可能性を聴いたのです。
希望を歌い継ぐ力強い声の可能性に耳を啓いたのではないでしょうか。
阿久悠は尾崎紀世彦に宛書するように新しい歌詞を書きます。
昨日へのこだわりを綺麗に捨てて明日へと向かうふたりの男女の姿を中心に据えて新時代を宣言したのです。
「ひとりの悲しみ」を寡黙にシェアしあうふたりの男女の姿が見えたのかもしれません。
「また逢う日まで」は1970年安保闘争の敗北に沈む世の中にとって新しい福音のように響いたはず。
この歌は社会を映す鏡であり未来社会の青写真でもあったのです。
歌は歌い継がれて生きてゆく
阿久悠による超克と跳躍
ふたりでドアをしめて
ふたりで名前消して
その時心は何かを話すだろう
ふたりでドアをしめて
ふたりで名前消して
その時心は何かを話すだろう
出典: また逢う日まで/作詞:阿久悠 作曲:筒美京平