僕は君を奪い返すまでの情熱はないのです。
それでもとことん嫌いになった訳ではないようで君のこれからを祝福します。
一緒に過ぎしてきた日々の中で君の期待に応えられなかったのは僕にも原因があるのかもしれません。
僕はそのことを自覚しているようなフシさえあります。
別れ際に罵り合って別れることほど不毛なことはありません。
双方にとって過去の幸せな日々までもが不浄なものだったと記憶の中で置き換えられてしまうからです。
こうした置き換えをしないと次の恋に進めない人は愛の意味を掴み損ねているような気がします。
付き合っていた日々の楽しかった記憶までは書き換え不能であること。
こうしたことを人は遠く離れてみたときに気付きます。
自分自身の青春の日々のそれなりの輝きはこうした幸せな記憶で構成されているからです。
斉藤和義はおそらくこうした過去との向かい方をすでにしている人なのでしょう。
若い日々こそ人は嫉妬に苛まれます。
しかし嫉妬さえ沸き立たない男性を登場させてすり抜けてゆく愛を騒がずに見送らせてしまうのです。
それでも僕は沖合に流されてゆく君の記憶そのものへの嫌悪感は示しません。
去りゆく君に執着を示さない僕は愛までも見送ってしまいます。
愛の脆さについて極端に達観しすぎているような印象さえあります。
もう愛に振り回されないで生きてゆきたいと思いを滲ませるでしょう。
愛からは降りてしまった僕ですが、それだからこそ君への愛には執着しません。
君への愛に執着しないからこそ、これからの君へも恨み言など抱かずに祝うことができます。
これはあくまでもここまでの歌詞からうかがえたことです。
それにしても僕の思いというものはかなり荒涼として寂しすぎるものでしょう。
小説「オートリバース」の影響
僕には最後の恋でも
君にはその次があった
出典: オートリバース~最後の恋~/作詞:斉藤和義 作曲:斉藤和義
斉藤和義はこの僕の境遇についてなぜ「オートリバース~最後の恋~」というタイトルを付けたのでしょう。
オートリバースという言葉は若いリスナーには馴染みの薄い言葉かもしれません。
カセットデッキやラジカセにセットしたカセットテープ。
そのカセットテープをA面からB面へと連続再生・連続録音する機能。
ただ、この曲の「オートリバース」とは高橋卓馬の同名小説からインスパイアされたものです。
このオートリバース機能付きのラジカセやコンポがたくさんあふれていた時代を描いた小説になります。
今やオートリバースという機能はカセットテープ文化の衰退とともに失くなってしまいました。
1980年代という若いリスナーにとっては相当な過去の時代について描かれています。
斉藤和義の「オートリバース~最後の恋~」も時代設定はこの頃なのでしょう。
それでも僕はこの恋愛を最後と歌います。
僕は君こそ理想の相手だと思ったのかもしれません。
この先に君以上のパートナーは現れないのではないかとさえ思った可能性もあります。
しかし不思議なくらいに淡々と君を手放してしまうのです。
君に関して俄然と興味が湧いてきます。
どんなに美しい人だったのかなどと想像してみるのです。
しかし斉藤和義は君については多くを書いていません。
君については僕と一緒に初めての恋愛をしたこと。
次の恋に向かってしまったこと、この2点しか描かれていないのです。
題材となった小説の中にヒントが有るのかもしれません。
オートリバースのように勝手にテープが裏返ることには良し悪しがあります。
きちんと片面と向かい合いたい人にとって自動でB面に移行して境界が分からなくなることは不安です。
知りたくないB面まで知ることになるでしょう。
僕は君のB面についてまで知る必要はないのかもしれません。
最後の恋といいますがオートリバースの機能を使ってしまうとその「最後」が不明になりかねないのです。
愛は本当に幻か
僕の失敗はどこにあったのか
愛と言う名の幻に
朝も昼も夜もいつでも急かされて
出典: オートリバース~最後の恋~/作詞:斉藤和義 作曲:斉藤和義
舞台が1980年代ということは若いふたりの愛の姿という解釈に導かれます。
僕は愛を幻といい切ってしまいました。
愛というものは本当に幻なのでしょうか。
おそらく若い僕は愛というものをあまりにも観念的に捉えてしまっています。
愛は僕にとって観念に過ぎないからこそ手放すことができるものなのでしょう。
実体としての愛を知っていたらどうでしょうか。
現実生活の経験や肉感で知覚できる愛を捉えきれていたとしたらどうなるか。
愛や恋なしでは生きてゆけられないことに気付けたはずです。
君の実体は果たして幻なのでしょうか。
こうした観念の上でしか君を捉えていないのならば手放すこともできるのだろう。
僕の愛の捉え方にかなりの寂しさを感じずにはいられません。
僕の強がりの方が現実の愛の前では無力です。
君は確かに僕のもとを去っても構わないかもしれません。
幻じゃない君は僕の観念を飛び越えて実体として感じられる新しい恋の方を選択しました。
君の心境はこの曲の歌詞の中ではブラックボックスの中です。
容易に君の心模様には触れられません。
しかし君を僕の愛についての諦めの中にこれ以上閉じ込めておくことはドラマにしても残酷でしょう。
涙さえ見せられない事情とは
ただそれだけの
ただそれだけのこと
涙溢れてしまう前に眠ろう
出典: オートリバース~最後の恋~/作詞:斉藤和義 作曲:斉藤和義
愛に疲れてしまった僕も別れの夜に涙を流すだけの感情は遺されていました。
あまりにも物事が慌ただしく変化する中で諦めてしまうことを選んだ僕です。
しかし疲れたときに人は自然に落涙することがあります。
どうしてこうなってしまったのだろうと考え出すと意識せずに涙が頬を伝うのです。
ただ、ここでも僕は君に本当の涙を見せる前に眠りにつこうとします。
その涙を素直に見せられるだけの率直ささえあれば運命は変わったかもしれません。
僕は涙を君に見せることも諦めてしまいます。
運命に対して足掻いたり抗ったりという気持ちすら擦り切れてしまったのでしょう。
それはやはり極度の疲れに由来するものかもしれません。
そうなると僕に垣間見えるある種の無責任さを責めることは酷になります。
何しろ「オートリバース~最後の恋~」は歌詞の情報量が少ないです。
公正にふたりの関係をジャッジしようなんて企みは頓挫します。
斉藤和義はあまりに頼りない僕を語り手にしますがそれなりに顧みるべき状況も少し書きました。
つまり君が新しい恋へ向かっているという事実です。
しかしそもそもどうしてこんな事態に陥ったのかの説明をバッサリと削ぎ落としました。
そのためにリスナーの想像に多くを任せるのです。
ただし、どちらがより悪いというようなジャッジを下すための判断材料は一切書いていません。
大切なのは気怠い別れの雰囲気と、ふたりの愛の日々が遠ざかってゆく姿です。
斉藤和義が描きたかったのは大切な記憶だけは綺麗にとっておこうという僕のスタンスにあるのかも。
別れ際に詰り合わないふたりを描くことに主眼を置いたのでしょう。
「オートリバース~最後の恋~」と「嘘」
夜が隠した真実とは何か
夜はすべてを隠して
何処か遠い遠い空へと羽ばたく
ただそれだけの
ただそれだけのこと
朝が嘘をさらけ出す前に眠ろう
出典: オートリバース~最後の恋~/作詞:斉藤和義 作曲:斉藤和義
いよいよクライマックスです。
夜が隠したものの中で重要なものは何かを考えてみましょう。
希望を添えるとするとここに僕の葛藤が隠れてはいないかと思うのです。
ひたすらに脱力してしまい、諦念に呑み込まれているような僕の姿を描いてきました。
しかし「オートリバース~最後の恋~」が僕の若い頃の記憶の歌となると疑念が生まれます。
若いうちにここまで達観しきった感情で壊れゆく愛を見つめていられるのかという疑問です。
実際に明日が来れば僕に葛藤があったとしてもこの恋愛はサヨナラします。
もうオートリバース機能のようにテープが勝手にひっくり返ることもループすることもないです。
君の未来について僕は干渉する気配がありません。
一時期、一緒にいたことは事実なのでまったくの他人にはなれないでしょう。
それでも新しい男性と生きてゆくことを決めた君の邪魔になるようなちょっかいは出せません。
この事実に僕は少しの葛藤もないのでしょうか。
もし多少とも葛藤を抱えているとしても、そうした思いは夜が隠してくれるという確信があるのです。
いずれこうした葛藤を抱いていたことも遠い記憶になることを僕は過去の恋愛の経験で知っています。
こうした思いをするのはデジャブのような錯覚さえ僕に抱かせているはずです。
斉藤和義は僕の過去の恋愛についてもブラックボックスの中に閉じ込めています。
それでも僕には相応の恋愛経験があったことを明示しました。
この明示された事実は過去にも僕が恋愛での別れを何度か経験してきた事実を教えてくれます。
何度か経験があるからこそ僕は別れ際に見苦しく振る舞うことを自制しているのかもしれません。
この恋愛は綺麗に見送るようにしたいという思いがあるとしたら、それはちょっとした葛藤でしょう。
夜に隠されたものの正体は僕が胸のうちに押し留めてしまった葛藤と流れるべき涙です。