悲しく切ない現実を超え、ワクワクするような仮想現実の世界へ。
そこに行きましょうと手招きした後のリリックです。
「蜃気楼」に「飛び乗って」しまえる場所ということのよう。
「蜃気楼」といえば、幻ですから乗りこなすことなどできないもの。
しかし、乗れてしまうと表現しています。
現実ではない仮想現実の世界ならば可能なよう。
「さかしま」とは、道理にこだわらないことを指します。
つまり、現実の世界の道理にこだわらない世界ということです。
ということは「蜃気楼」は幻で乗れないという道理も飛び越えられるということ。
できないことが多い現実を飛び越えて、現実の道理を飛び越える世界。
新たな仮想現実の世界の魅力を伝えています。
現実で失った愛を求めて
私を愛してください
ララライ ララライ
止まない愛を
知りたいと
願う御呪い
時を超えて
出典: U/作詞:Daiki Tsuneta 作曲:Daiki tsuneta
「愛」は普遍といいますが、そうでもありません。
愛する人がいなくなったとき、「愛」が無くなってしまったように感じる場合があります。
今までその「愛」にすがっていたと自覚がなくても、失ったときに人は脆いものです。
当たり前にあった「愛」が、目の前から無くなれば、人は「愛」の終わりを感じてしまいます。
しかし、どうかそんな「愛」の終わりを見たくない。
リリックは「止まない愛」と表現しています。
これは「愛」の終わりがないことを指しているのでしょう。
「愛」の終わりがない、そう感じられる歌があったらいいのに。
そんな歌が知りたいと願う思いは、まるで祈りというよりも、ある種の呪いのよう。
その願いとは、愛する人を失ったものが、その失った「愛」を取り戻したいと思っている。
例えば、「時を超えた」としても。
人に「時を超える」ことなどできないのですが、そんな不可能さえも超えていきたい。
そんな強い「愛」への思いが表現されています。
時は過ぎ去るもの
ララライ
ララライ
君を知りたい
何一つ見逃さぬように
出典: U/作詞:Daiki Tsuneta 作曲:Daiki tsuneta
愛のもろさ、儚さを知っているからこそ表現されたリリックです。
「君」が愛する人なのか、これから愛したい人なのか、それはまだ分からない。
だけど、何故か君を知りたいと感じています。
そしてその直感を大切にしたいという気持ちが込められたリリックです。
誰がを知りたいと思うとき、それは相手に対して思いがあるから。
その思いが愛につながるものかは分かりません。
でも、人を知りたいと思う気持ちを大切にしたいのです。
何故なら、過去に愛を失った経験を持っているから。
今を大切に、何一つ見逃してしまわないようにしたいと思っているのです。
だからこそ、今の直感を信じ、君を知ろうとしています。
目を背けたいのは
悲しい現実を
夢ならば
醒めないで
現実なんてさ
身も蓋もないから
出典: U/作詞:Daiki Tsuneta 作曲:Daiki tsuneta
現実には悲しくて切ない景色しか見えない。
そんな悲しい現実をみるのは、もう嫌だ。
例えばもし、今見えている景色がそんな現実とは少し違って素敵だったらどうでしょう。
ああ、これが「夢」なら、このまま見ていたい。
「醒めないで」ほしいと、思うでしょう。
現実の悲しさを知っていればいるほど、悲しみの無い景色を美しいと思うものです。
そしてそれが、例え仮想現実であってもそのまま見続けていたい。
仮想現実や夢は、醒めてしまうかもしれない。
それならば、いっそ「夢」の中のままでもいいと歌っています。
「現実は身も蓋もない」とは、あまりにも現実的で味わいがないときの表現です。
つまりそれだけ、見えている「現実」は悲しいということかもしれません。
現実なんてものは、味わいがなく切ないつまらないもの。
だからどうか、今見えている景色が美しいなら、たとえ「夢」でもそのままでいたい。
「醒めない」ままでも、私はこのままでいいと思っているのでしょう。
時は誰も待ってくれないからこそ
時は誰も待ってくれないの
出典: U/作詞:Daiki Tsuneta 作曲:Daiki tsuneta
時間は誰に対しても平等です。
同じリズムで刻まれ、進んでいきます。
例えお金持ちでも、プアーな環境にあっても平等です。
誰も待たず進んでいくものが時間。
「時」はあっという間に過ぎ去り、今はすぐに過去になってしまう。
このリリックは、時間は限りあるものだと表現しているのです。
だからこそ、悲しい現実を見るよりも、「鼓動の鳴る」楽しい時間を過ごそう。
消えてしまった「愛」を探す現実を生きるのは辛い。
そんな時間を過ごすより「夢」のような「時」を過ごそう。
例えそれが実体のない仮想現実だったとしても。
そう皆を手招きしている表現といえましょう。