約束をしよう 護り あそぶ。

出典: 革鳴前夜/作詞:GESSHI類 作曲:水谷和樹

そう考えると、この歌詞にも納得がいきます。

この歌詞は、ファンを決して独りにはしないという決意を表していました。

周囲の人間が簡単にできることをできないとき、不安に思うのは当たり前です。

できないのは自分ぐらいでは…と自己嫌悪に苛まれる「君」を、「君」だけじゃないよと表現し続けます。

毎日がしんどい

ネガティブ思考を止められない

四面楚歌ってなんでだって? 思い当たる節のオンパレード
目に入るもの全て 憎んでたって空虚だよね? わかってても
止まない負の円環 出口など霞む現状

出典: 革鳴前夜/作詞:GESSHI類 作曲:水谷和樹

「ぼく」は周囲の人間を全員敵だと思っています。

ですが周りが敵だらけなのも、全部自分のせいだと思っていました。

そうやって誰のことも嫌っていましたが、それが無意味だということも理解しています。

周囲の人間すべてを嫌っている状態では、到底明るい未来には到達しえないでしょう。

理解していても、ネガティブな思考を止めることができません。

自分でもどうすれば良いのかわからなくなってしまいました。

1番の歌詞は未来に対して少しでも希望を持っていたのに、2番ではそれすらできなくなっています。

これは「ぼく」の心境が未来に対して一進一退少しずつしか前に進めないということを表していました。

自己嫌悪は増すばかり

進めよ行進うるさいちね 1人がいいのよ放っておいて
右向け右もハマらんくせ「寂しいね」って吐露する本音
ここ掘れワンとか道は作れ 理解してるのに見て見ぬフリ
いつからそうなのほんとやだ無理 出せなくなったS.O.S

出典: 革鳴前夜/作詞:GESSHI類 作曲:水谷和樹

さっさと前進しろよという周囲の言葉が、「ぼく」にはわずらわしくて仕方ありません。

この前進が表しているものは、1番で「ぼく」が怖気づいてしまった社会と関わることのようです。

1番で描かれていた通り、周囲の人間には容易にできることでも「ぼく」にはできません。

これは社会の枠組みにうまく入れないことを表しています。

他者との間にを感じ、どこにも居場所なんてないという思いを抱えてたようです。

そして、この「ちね」という単語は「死ね」という意味で使われています。

これは「ぜんぶ君のせいだ。」でしばしば使われる表現で、可愛らしくも毒づいているのが見て取れました。

そして2行目の前半の歌詞は、社会で一般的にされているアドバイスを表しています。

社会の枠組みに入るにはこうすればいいんだよという一般的な忠告です。

ですがよく聞くアドバイスも、自分には当てはまらず役に立ちませんでした。

「忠告なんて役に立たない、干渉しないで」と他者を拒んでも、本当は孤立することに寂しさを感じています。

そのように他者を拒絶しつつ寂しがるだけでは何も変わらないということを、「ぼく」も理解していました。

このままでは駄目だと心の声が聞こえますが、それすら無視してしまいます。

そうして無視してしまう自分に、さらに自己嫌悪は増すばかりでした。

どうして誰かに相談することもできないのだろう…と、自分に対して不甲斐なさを感じています。

このように「ぼく」は周囲の人間を拒絶し、頼ることもできません。

周囲に敵しかいないことを自分のせいだと考えているのは、このためでしょう。

自分の痛みは自分だけのもの

「いや、逃げ出すには 早すぎる」と。知らない言葉が耳に
届く度に震えるけど ぼくはぼくで在って君じゃないでしょう
呪文のよう。明ける空見上げるんだ…君もかい?
「ゆっくりでいい」

出典: 革鳴前夜/作詞:GESSHI類 作曲:水谷和樹

このように「ぼく」は社会にうまく馴染むことができません。

そういう「ぼく」の姿を見て、無責任な他人は平気で「もっと頑張りなよ」と助言してきます。

ですが、そもそもどこまでか許容範囲かは人によって異なるものです。

ある人にとってはなんでもないことも、他の人にとっては耐え難いほどの苦痛かもしれません。

ですから無責任な他人が言う「もっと頑張りなよ」という言葉なんて、無視していいのです。

痛みとは、それを感じている当事者にしかわかりません。

最後の行は「自分のペースで良いんだよ」と、「ぼく」が「君」を力づけているさまを表していました。

握った手に込めた決意

「君」がいれば何も怖くない

例え話じゃない現実は此処に 目の前だよ
居るんだ 君もぼくも 

出典: 革鳴前夜/作詞:GESSHI類 作曲:水谷和樹

この歌詞は「ぼく」や「君」の痛み喜びも、どうしようもないほど現実だということを表しています。

確かに、現実では苦しいことも多いでしょう。

ですが「ぼく」と「君」は苦しみを抱えていたからこそ、お互いに出会うことができました。

そうして、お互いの存在は相手にとっての救いとなっています。

現実に多くの苦しみがあったとしても、その苦しみを救う存在もまた現実の中にいるのです。