この恋愛がうまくいかない理由が分かるような気がします。
「私」が「あいつ」から愛されることに汲々とし過ぎなのです。
愛することよりも愛されることが女性の喜びというような恋愛観が闊歩している世の中。
それではどこか卑屈な態度で相手に臨むようになってしまいます。
自分の愛が本物ならば迷惑行為にならない程度にきちんとそのことを表現し尽くすことが大事なはずです。
愛されるのを待つために努力することは遠回りのような感じがします。
しかしこのラインに溢れる女心の可愛さは一方で認めないといけません。
恋の躍動感は存分に伝わってきます。
恋というのは何をおいても悩ましいものです。
あいみょんの文学的素地
カラオケにピッタリのサビ
キラキラに光る何かを追いかけて
私はそれでも愛されなくて
本当の自分を隠し続けてる
私はいつでもマトリョーシカ
出典: マトリョーシカ/作詞:あいみょん 作曲:あいみょん
1回目のサビです。
メロディーの美しさや覚えやすさが素晴らしい。
これならばカラオケで歌うのも容易なはずです。
あいみょんの歌は一般の女性にとっても歌いやすいことに人気の一因があるでしょう。
ただし歌詞の方は深く切ない哀しみのトーンに覆われています
愛する人の光を追い続けてきたけれども愛が報われることはありません。
「私」を私の中に隠しているので入れ子構造の分かり難い人間になってしまうのです。
マトリョーシカのような人格構造では中々他の人の気持ちを射止めることはできないでしょう。
哀しい想いが伝わってくる素晴らしく文学的な歌詞です。
あいみょんはこうした文学的素養を何処で身につけたのでしょうか。
あいみょんの本棚の背表紙が気になって仕方がありません。
愛する技術こそ身に付けたい
いつまでマトリョーシカなの?
寝る間を惜しんで書いた手紙も
メイクも何もかもが無駄ね
殻に閉じこもったマトリョーシカ
せめて神棚に添えて欲しいわよ
出典: マトリョーシカ/作詞:あいみょん 作曲:あいみょん
愛することは何よりもArt(技術)を必要とします。
充足した恋愛の中で愛する技術を学ぶことこそが大人の女性に必要な道筋です。
愛されるためにする行為、手紙の文体にこだわる、メイク術を学ぶ。
こうした愛されるための技術ばかりが情報誌に氾濫しますが、それでは本当の恋は射止められないもの。
マトリョーシカへの擬態をやめない限り「私」に真実の愛は訪れないのではないかと想わされます。
ロシアの民芸品を日本の神棚に祀ってしまう描写は笑みがこぼれてしまうものですが。
「あいつ」の心はどうやったら奪えるのでしょうか。
解決策はあまりにも少なくリスナーも困ってしまうはずです。
とりあえずマトリョーシカへの擬態をやめてしまえばいいのにと誰しもが思います。
しかしマトリョーシカを捨てたら、この歌が成り立たないのでした。
「モノ」にはなりたくない
愛は生き物なのに
近いうちに愛されるかな私、私
キラキラに光る何かが欲しかった
私は一度も愛されないの?
本当のあなたも知らないままなの
私はあなたのモノでしょうか?
出典: マトリョーシカ/作詞:あいみょん 作曲:あいみょん
マトリョーシカに擬態した「私」では本音での会話は不可能です。
この恋愛が形だけでもうまくいったところで本物の愛にはならないでしょう。
「あいつ」「あなた」の真実も分からない状態なのです。
また最後のラインに登場する「モノ」という言葉には何重の意味が込められています。
「あなたのものになる」という熟語にあるように「あいつ」「あなた」の恋人になること。
次に「あいつ」「あなた」の「モノ」に過ぎないのか? という問いかけです。
「あいつ」「あなた」の付属物としてのマトリョーシカの姿を思い浮かべてみてください。
人間としては扱われない「モノ」としての「私」。
アクセサリーや玩具のように消費されていずれ捨てられる「モノ」の哀れな姿が浮かび上がるのです。
その際、愛は決して生きたものではありません。
死んでしまったと同じ「モノ」に成り下がります。
マトリョーシカの涙
中の人が泣いている
笑っているふりが得意になっちゃった
2つめの顔には青い何かが流れている
水たまりができて
溢れちゃいそうだ
溢れちゃいそうだ
溢れちゃいそうだ
出典: マトリョーシカ/作詞:あいみょん 作曲:あいみょん