右手には左手を 左手には右手を
ポケットの中には小さな愛を
右手には左手を 左手には右手を
ポケットの中には小さな愛を
嫌い 嫌い 嫌い 嫌い 嫌いと突き放したって
結局またすぐにここに帰ってくるんだから
嫌い 嫌い 嫌い 嫌い 嫌いと突き放したって
結局ここに帰ってくるんだよ
出典: あの嫌いのうた/作詞:尾崎世界観 作曲:尾崎世界観
右手を差し出した相手に左手で応じる?
これは鏡に映る「僕」のことではないでしょうか?
つまり「君」と「僕」は同一人物だと考えるとスッと腑に落ちます。
「嫌い」と執拗に罵倒していた「君」とは僕自身だったのです!
何年歌い続けても何も伝えることができない僕が嫌い。
それでも情けない顔で歌い続ける醜い自分が嫌い。
喋り方も話し声も全部、全部嫌い!
それでもそんな僕を嫌いになりきれない。
だからまたこのステージに戻って無様に歌い続ける。
ポケットの中にはまだ自分を愛する心が少しだけ残っていたようです。
嫌い=好き?
尾崎世界観は本作リリース時にこう語っていました。
「嫌いと好きは同じものだと思う」
当時から本の虫であったであろう尾崎世界観。
愛読していた北野武の詩集の一節にインスパイアされたと語っています。
「生きるということは死に向かうこと」
「生きろということは死ねということと一緒」
そこから上記の発言に繋がります。
本当に自分に絶望している人は歌を歌いません。
自分の嫌な部分を本当には嫌いになれないから苦悩し叫ぶのです。
自己の否定と肯定=喪の仕事
僕は僕が嫌いです 本当に僕が嫌いです
この歌も この歌も この歌も
何も伝えられなかったと昨日、情けないこの感じも
出典: あの嫌いのうた/作詞:尾崎世界観 作曲:尾崎世界観
どれほど世間から評価される歌手も自分の声にコンプレックスを持っていると云われます。
あの米津玄師でさえ「自分の声が嫌」だからボカロ制作からキャリアを始めました。
どうしても伝えたいことがあるから尾崎世界観は歌います。
大嫌いな声で大嫌いな歌を歌うのです。
心理学の権威のフロイトが「喪の仕事」と呼ぶ心理プロセス。
喪失の哀しみから心を徐々に回復させていくことを芸術家は作品制作で行います。
尾崎世界観の歌う「あの嫌いのうた」は自分自身に対する「喪の仕事」なのではないでしょうか?
嫌い 嫌い 嫌い 嫌い 嫌いと突き放したって
結局またすぐにここに帰ってくるんだから
嫌い 嫌い 嫌い 嫌い 嫌いと
突き放したって結局ここに帰ってくるんだよ
だけど
キライキライキライキライキライ
キライキライキライキライキライキライ
キライキライキライキライキライキライ
キライキライキライキライキライキライキライ
出典: あの嫌いのうた/作詞:尾崎世界観 作曲:尾崎世界観
「あの嫌いのうた」で執拗に繰り返される「キライ」。
尾崎世界観は「キライ」という言葉にダブルミーニングを持たせたのではないか?
大好きな人(恋人・家族・友人)と長い時間を共にすること。
そのことは相手の嫌な側面も見ることに繋がります。
他人の嫌な側面を見ることは同時に自分の嫌な側面と向き合うことでもある。
自分の嫌いな部分を受け入れ許すこと。
それは同時に自分と相手のことをもっと好きになることでもあります。
嫌いだけど好き。だから結局またここに帰ってくる。
皆さんは「あの嫌いのうた」をどう解釈しますか?
『百八円の恋』との類似点
メジャー&タイアップでもぶれない世界観
クリープハイプがメジャーデビューしたのは2012年。
その間音楽性も歌詞の世界もより開かれたものになっていきました。
筆者が2014年作の「百八円の恋」を聴いたときに連想したのが「あの嫌いのうた」でした。
「あの嫌いのうた」で何度となく繰り返される「嫌い」という言葉。
そして「百八円の恋」で尾崎世界観は「痛い」けどそこに「居たい」と叫びます。
何度でも。何度でも。
映画『百円の恋』-安住の地は痛みを伴う場所
「百八円の恋」は映画「百円の恋」のシナリオをモチーフにしています。
過去の自分と決別し新しい居場所を見つけた主人公を安藤サクラさんが熱演。
やっと見つけた居場所に「居たい」。
だから「痛い!痛い!」と泣き叫びながらボクシングを通して人生と戦う物語です。
安住の地は痛みを伴う場所。
痛いけれどそこに居たい。大好きだから。
尾崎世界観の歌とリンクするような映画「百円の恋」。
映画のラスト、ボロボロになった主人公は「百八円の恋」をバックに安住の地に戻っていきます。
「あの嫌いのうた」と「百八円の恋」に見られる多くの類似点。
尾崎世界観は映画の主人公に過去の自分を見たのではないでしょうか。