歌詞の表現する世界とは
「見ざる聞かざる言わざる」の歌詞は、水曜日のカンパネラの他の楽曲と同様にケンモチヒデフミが書いています。
偉人や昔話など誰ても知っているものをモチーフに、リズムの良い言葉を選んで書かれていることが特徴です。
以下に「見ざる聞かざる言わざる」の歌詞を引用しますので、是非、読んでみてください。
見てない 聞かない 言わない そして
干されかけの彼を「せざる」という
4体目のシンボルには
最近用はない 最近用はないという
最近用はない 最近
とめどない とめどない
東照宮
おとなしくしてよう
とめどない とめどない
東照宮
礼にあらざれば
出典: 見ざる聞かざる言わざる/作詞:ケンモチヒデフミ 作曲:ケンモチヒデフミ
歌詞の中には「見ざる聞かざる言わざる」というフレーズはなく、「見てない」、「聞かない」、「言わない」と口語調になっています。
それに対して「せざる」という部分だけ文語調です。
「干されかけの彼」とか「4体目のシンボル」とのことですが、これは一体何を指しているのでしょうか?
下ネタにつき干された猿の話
身もふたもないタイトルをつけましたが、コムアイ自身がインタビューなどの機会にそのように話しているので、ここは、それを踏襲します。
見ざる聞かざる言わざるの三猿は、それぞれ目(見ざる)、耳(聞かざる)、口(言わざる)を隠しています。
それぞれ見・聞・言に「ざる」がついて、「猿」という動物に投影されている駄洒落的感覚から、日本が起源の言葉と思われがちです。
しかし、シルクロードを遡り古代エジプトにまで至る古い言葉です。
中国で孔子の弟子たちが編んだ「論語」にも「非礼勿視 非礼勿聴 非礼勿言 非礼勿動」という一節があります。
「礼にあらざれば視るなかれ 礼にあらざれば聴くなかれ 礼にあらざれば言うなかれ 礼にあらざればおこなうなかれ」と読み下せます。
この楽曲の歌詞にもある「礼にあらされば」という部分は「論語」の引用なのです。
このうちの「非礼勿動(礼にあらさればおこなうなかれ)」が、「せざる」にあたります。
これは猿の像で言えば股間を隠した姿となります。
股間を隠した猿が「何」を「せざる」なのかはさておき、三猿には含まれません。
それでも、「論語」には残っていますので「干されかけ」です。
なかなか深いでしょ?
しかし東照宮の猿はもっと深いんです!
歌詞の中の「東照宮」とは、日光をはじめとする各地にある徳川家康を祀った神社のことです。
日光東照宮の三猿は神厩舎という神馬のための厩舎の外壁にありますが、実は神厩舎には三猿を含めて全部で16匹の猿がいます。
16匹って多すぎると思いませんか?実に「とめどない」のです。
これだけでは終わらない「見ざる聞かざる言わざる」
「見ざる聞かざる言わざる」にはPVに出てこない続きがあります。
誰のためのルールなのさ
コンプライアンスを守れという
上層部の意見では
少々品がない 少々品がないという
少々品がない 少々
とめどない とめどない
東照宮
おとなしくしてよう
とめどない とめどない
東照宮
礼にあらざれば
礼にあらざれば
何かを隠しては
誰も笑えないさ
出典: 見ざる聞かざる言わざる/作詞:ケンモチヒデフミ 作曲:ケンモチヒデフミ
歌詞に出てくる「コンプライアンス」という言葉から、政治や経済になぞらえた解釈もできると同時に、日光東照宮の三猿から「せざる」が干された理由を述べているとも考えられます。
日光東照宮の三猿の作者は不明なのですが、徳川家康を祀った神社の中の像としては、いくら猿のすることといえ相応しくないという判断があったというのは事実のようです。
これを、「コンプライアンス」上の理由から上層部より「少々品がない」と評価されて外されたと表現するのはさすがとしか言いようがないですよね。
サウンドが素敵
アニメーションや歌詞といった部分に着目してきましたが、いつものことながら、この楽曲もケンモチサウンドが効いた楽曲となっています。
特に、PVにはない続きの部分は、前半部のEDMとは打って変わったアンビエントなサウンドとなっており、ボーカルにかけられているリバーブのエフェクトの美しさにも大注目です!
リバーブとはどのようなエフェクトなのか?
バスルームやトンネルなどで声を出したときに響くあの感じをシミュレートしたエフェクトを「リバーブ」と言います。
「リバーブ」は歌が上手に聴こえるエフェクトである反面、音が濁ります。でも、この楽曲のリバーブの澄んだ音といったら!
残響音の周波数を絶妙にイコライザで削って研ぎ澄ませることにより、濁らないリバーブを創り出すのです。
単に面白い歌詞の曲というだけではなく、こういったテクニックが駆使されているのも水曜日のカンパネラならではだと思います。