切ない気持ち
心を何にたとえよう
花のようなこの心
心を何にたとえよう
雨に打たれる切なさを
出典: テルーの唄/作詞:宮崎吾郎 作曲:谷山浩子
花は植物ですから、自分の意志であちこち動くことはできません。
自分で沢山の同族たちでにぎわう花畑にいくことも、花が好きな人間の元にいくことも出来ないのです。
テルーは人間ですから歩き回ることはできますが、自由ではなかった筈です。
自分の意志を表に出すことも許されなかった様を表しているのかもしれません。
優しさに触れることも出来ないまま、誰からも可愛がってもらえない。
自分に浴びせられる冷たい言葉や視線が雨とも言えるでしょう。
その切ない気持ちは、ぽつんと咲いているしかない花と同じだと言いたいのですね。
言葉を交わさない孤独
一人ではないけれど…
人影絶えた野の道を
私とともに歩んでる
あなたもきっと寂しかろう
虫の囁く草原を
ともに道行く人だけど
絶えて物言うこともなく
出典: テルーの唄/作詞:宮崎吾郎 作曲:谷山浩子
最後となる三番は二人で草木の生えた道を歩いている場面です。
今までの広い世界に自分だけぽつんと取り残された、というものではありません。
一緒に歩いている筈なのに物寂しい情景が浮かび上がってきますね。
一人ではないからといって、孤独でないとは限りません。
お互い何も話さないでいるこの沈黙はどうにも気まずいもののようです。
二人の間にはお葬式のような重苦しい空気が流れているこの状況。
お互い良い気分であるわけはない筈なのに、この沈黙を破れる間柄でもないのでしょう。
「あの鳴いている虫は何の虫かな?」と聞くこともなく「私」と「あなた」は道を歩いていくのでした。
一人なのと一緒
心を何にたとえよう
一人道行くこの心
心を何にたとえよう
一人ぼっちの寂しさを
出典: テルーの唄/作詞:宮崎吾郎 作曲:谷山浩子
先程の歌詞では少なくとも「私」と「あなた」の二人で歩いていた筈なのに、サビでは一人になっています。
言葉を交わさずに並んで歩いているだけなら一人で歩いているのと変わらないという意味なのでしょうか。
結局誰かと一緒にいても孤独から解放されるわけではない。
もちろん大好きな人であれば話は別ですが、この状況は違いますね。
ただ誰かと一緒にいることだけが寂しさを解消する手段ではないことを、テルーは分かっているのでしょう。
「テルーの唄」が伝えたいこと
孤独を嘆く歌詞ではない?
「テルーの唄」は全体を通して「孤独」を語る歌です。
歌詞だけを見れば物悲しい雰囲気がありますが、決して「寂しい」と嘆いているわけではないように思います。
寂しさや孤独って、こういうことだ。
つまり、自分が感じているこの空虚を比喩的な表現で説明しているのです。
テルーの人生は本当に孤独なものでした。
両親はいるのに、その両親から愛してもらえない。
顔のやけども彼らから受けた虐待の痕です。
今はテナーの元でまだ幸せな暮らしは出来ていますが、寂しさは完全に埋まっていません。
心の傷はそう簡単には治りませんから。
しかしそれを悲しむのではなく、寄り添うような気持ちで唄にのせているように感じます。
映画では、「テルーの唄」を聞いたアレンが涙ぐむシーンが印象的でした。
彼が思わず涙を流したのも、優しく寄り添うような唄に心が共鳴したからなのではないでしょうか。
彼もまた心に闇を抱えて苦しんでいたのですから。
歌詞の元は萩原朔太郎の詩
「テルーの唄」の歌詞は、監督の宮崎吾朗さんが萩原朔太郎の詩「こころ」に着想を受けて書いたものと公式に発表されています。
映画のDVDやテレビ番組ではそのことが述べられていました。
ただし、「テルーの唄」のシングル盤にそのことは表記されていません。
「こころ」もまた孤独を綴る切ない詩。
寂しげではありますが、決してそれだけではない雰囲気を漂わせているのはお互い同じですね。
孤独とは必ずしもネガティブなものではありません。
それでもどうしようもなく寂しさに打ちひしがれることは誰にでもある筈です。
その感覚を美しく表現したこの「こころ」は、「テルーの唄」と併せて見てみるのも良いでしょう。