誰しも必ず終わりを迎える命。
そうだとわかっていても人は「生かされている」からやがて自ら「生きる」ということを始めるのでしょう。
生きるということを謳歌し、どんどんと自分の意志で前に進んで行くのです。
漂う人から、旅人へとなるのです。
終わりが近づくその時
加速した日々は
ついには減速する日々を迎え
陽が沈んで
黒ずんだ水平線と対峙する暗夜行路に至ったのです
出典: それを言葉という/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
志賀直哉の小説「暗夜行路」。
波乱万丈な人生は晩年も波乱万丈とは限りません。
晩年は穏やかな日々を過ごし、心穏やかに人生の幕を閉じるということもあるのです。
暗夜行路はそのような人生を象徴している小説ともいわれています。
人生の終わりを自ら悟ったとき、人は航海の終着地を見つけ、穏やかにそれと正面から向かい合うのでしょう。
誰にも見つけられない存在
誰の気にも留まらない忘れ去られた者の持ち物や、大きな光の中のほんの小さな光。
自分がそんな見つけようとも探そうとさえもされない存在だと気づいたとき。
人は寂しいという感情を封印するのでしょう。
考えることもやめ、そして、再びまた漂う人になっていくのです。
今さら叫んでも伝わらないのか
打ち上げられた船乗りの靴
明星とデネボラの隙間微かに光る六等星
全ての人に忘れ去られる事が
終わることだとしたら
その時すでに僕は終わっていたし
それを寂しいとすら考えなかった
ただ静かに唸る波に揺さぶられて
喉が千切れる位に後悔の歌を叫んだのです
出典: それを言葉という/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
どんなに忘れ去られた存在でも、探そうとされないものでも、確かにそこには存在するのです。
存在するからこそ、忘れ去られてしまうと寂しいという感情が生まれてくるのでしょう。
「自分はここだ」「見つけて」
伝えなかった時間の渦に飲まれてしまったら、もうどんなに叫んでもがいても伝わることはないのでしょうか。
声に!言葉に!
「言わなくてもわかる」そんな関係もあるでしょう。
しかし、一番大事なことは声に、言葉にしなければ伝わらないのです。
嬉しい、楽しい感情は伝えやすく伝わりやすいもの。
反対に哀しい、苦しいなどの感情は心にしまってしまい伝えにくく、そして伝わりにくいものです。
伝えようとしなければ、何も伝わらない
苦し紛れの声 苦渋の歌声
稲妻と響け
無理だと言われた距離を超えてみせろ
「言葉にすればたやすくて」って
言葉にしなきゃ分かんねぇよ
君は伝える事諦めてはだめだ
それを届けて
出典: それを言葉という/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
どんなに遠くからでも、伝わるのが無理だと思うことでも、伝えようとすれば届くのかもしれません。
つまりは伝えようとしなければ、何も伝わらないということ。
4行目と5行目の歌詞は、当たり前の誰でもわかりきっているつもりのことを言っています。
しかしこれが実は難しいのです。
感情を声に、言葉にして目の前の相手に伝えるということ。
それは、自分の弱さや脆い部分を自分の声で伝えるということなのではないでしょうか。
自分の声で伝えてしまったら、削除も送信取り消しもできないのです。
目の前で否定されるかもしれない、目の前で無視をされるかもしれない。
ただ、そこでまた感情をしまいこんでしまってはいけない、諦めないで言葉で伝えるのです。
生きたい証
何かがきれいだとか、輝いているだとか、目に入ったものに何かの感情や想いを向けることができる。
それはきっと生きたいという証なのです。
心はまだ死んでいない。
消えてしまいたい程に苦しい夜を乗り切って迎えた朝の光はきっと拍子抜けするぐらいに眩しく感じたのでしょう。
そしてまた、いつもの今日が始まるのです。