「内臓ありますか」に込められた意味
斬新なタイトル
2019年1月22日にピノキオピーが発表した楽曲「内臓ありますか」。
インパクトのある斬新なタイトルが印象的です。
リスナーに問題提起する歌詞が多いピノキオピーですが、今回はどんなメッセージが込められてるのでしょうか?
なぜ「内臓」の有無を問いかけているのでしょうか?
この楽曲には段々と心を擦り減らしていく様子が綴られています。
痛みに耐えて生き続けた結果、楽曲の主人公はどんな考えに至ったのでしょうか…。
今回はその意味に迫ります。
MVをチェック
少女の表情に注目
「内臓ありますか」のMVでは赤と黒を基調とした世界で少女が感情を吐露します。
少女の姿を見ると、内臓をプリントした洋服がまず目に留まることでしょう。
時に笑顔を浮かべ、悲しそうな顔を浮かべ、ナイフを手に握り締めます。
そこからは「素直に笑顔でいられない」という現状が読み取れるのです。
そして顔にかかるモザイクや馬の仮面。
これには「怒り」などといった負の感情を自主規制する意味があるのかもしれません。
また、表示される歌詞がどれも胸に刺さりますね…。
胸につっかえたような感覚を吐露
突きつけられる現実
悟った気がしたけど 結局元の木阿弥である
この世を俯瞰で見渡しても 肉体はジャンクフード食べる
因果応報はなく すべては塞翁が馬である
何年経ってもいじめっこの君は 幸せそうだった
出典: 内臓ありますか/作詞:ピノキオピー 作曲:ピノキオピー
「悟り」のあとに「ジャンクフード」が続くのが印象的ですね。
「悟り」とはこの世の真理を会得し、心の迷いがなくなること。
それができた「気がした」ということは、実現できなかったのでしょう。
「悟りたい」と感じるほどの心の痛みや衝撃があったのかもしれません。
何にも動じない心を手に入れたい。
この痛みを乗り越えたい。
そう願っている傍ら、現実の自分はというと達成できないままジャンクフードを貪っているのです。
精神的な境地を目指すもそれに対して肉体がついていかない…。
理想と現実を突きつけられている様な気分です。
そして、MVでは少女に銃口が向けられます…。
歌詞から少女がいじめられていたことが読み取れますね。
「いじめる人には因果応報で悪いことが起こる」
そう信じていたのに、現実はその通りに行かず幸せそうに過ごしている…。
「なんで自分ばかり不幸なんだろう」と嘆いているようにも読み取れます。
植え付けられた人間不信
言っても無駄 言われても無駄 無気力無自覚無関心なほど
傷つくのを怖がった 愛さずに愛されたがった
因果応報はなく すべては塞翁が馬である
天が見ていても本当の邪悪は 邪悪のままだった
出典: 内臓ありますか/作詞:ピノキオピー 作曲:ピノキオピー
このフレーズではナイフを向けられて怯える少女の姿が…。
心に負った傷を表現しているのでしょう。
傷を負った少女は他人からの愛を過剰に求めてしまったようです。
そしてきっと、そんな自分に自己嫌悪すらしているのだと思います。
また、この歌詞から読み取れるのは「強い人間不信」。
願ったって叶わない。
報われることなんてない。
人に期待することなく、不幸の波に溺れてしまっているような気がします。