なりたい女性像を他人の好みに委ねている限り、わたしは本当のわたしにはなれません。
魔法をかけようとして振りかざしたステッキには戦場の汚れが付着しています。
願いを叶えてくれる魔法のペンダントだって壊れてしまったままなのです。
もうどうにもならない現状にまで行き着いてしまったところでわたしは嘆いています。
しかしわたしは自身の何が問題なのかをまだ理解していないようです。
問題を認識できないままなのですから解決策だって考えられません。
ただ嘆くだけの戦場の怖ろしい実態が浮かび上がるのです。
広告業界に騙されているだけではないか。
本当の美しさを見つけて大人の女性になることを考えなくてはいけない歳頃なのだ。
こうしたことに気付けたならば道は拓けるでしょう。
しかしわたしはまだまだ可愛いままでいられないのかと思い続けるのです。
わたしはもはやちょっとしたモンスターでしょう。
自分がモンスターになっていることに気付けないままわたしの顔は何処にあるのかと探しています。
まがいものとは何か
魔法少女は まちがい少女
まがいもののくちづけ
かわいくなってわたしに復讐するの
魔法少女は まどわし少女
まがいものの恋して
醜くなっていつか復讐されるまで
出典: 魔法少女と呼ばないで/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬
松永天馬はこの曲の中でまがいものという言葉を多用します。
多くの女性たちが実践している恋愛までまがいものと断罪するのです。
とても穏やかな話では済まないのですが、これがアーバンギャルドの毒というものでしょう。
確かに一部の女性は女性向けの雑誌やメディアで喧伝される恋愛の仕方に固執します。
くちづけだって誰かから情報を得たからしているようなものです。
そこに本当の自分はあるのかなという問いかけをしています。
もちろんこのくちづけには相手がいるのです。
この相手の男性の底の浅さについて触れない訳にはいきません。
男性が女性を可愛いとおだてなければトレンドは変わります。
女性の魅力とその価値を決めつけているのは男性の罪なのです。
広告業界は女性の意志でkawaiiを煽っているのではありません。
幼稚な男性たちが可愛い女性を至高の価値と考えるからこそ広告業界は煽るのです。
歳を重ねて魅力を増す大人の女性こそを男性は讃えるべきでしょう。
男性だって歳とともに老いてゆくのですから価値観をアップデートしないといけません。
しかし男女とも老いてゆくことを異常に怖がります。
これではとてもじゃないですが成熟した本物の大人の恋愛というものはできないでしょう。
もちろん広告業界は様々な資本の要求を満たすようにこうした幼稚な社会を再生産します。
悪循環から抜け出す動きはあるのでしょうか。
「魔法少女と呼ばないで」では老いることでわたしは復讐されてしまいます。
ここでは老いることを醜いと考える浅はかな感性そのものを問題にしているのです。
渋谷・原宿・新宿デルタ地帯
魔法少女のふるさと探訪
マルイ頭を公園に変えて
イチマルキューをプッシュホンして
イルミネーションくぐり抜けても
魔法は二十四時にとけるから
ラフォーレターのつもりで書いた
アルタ或る日或る時の愛の
ハートマークは丸く尖って
魔法少女魔女に変えて
出典: 魔法少女と呼ばないで/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬
渋谷・原宿・新宿を可愛い女性たちの聖地として描いています。
マルイは渋谷・新宿にある説明不要のデパートです。
マルイはファッション・文化の発信の場として1980年代頃から急速に成長しました。
イチマルキューとは渋谷109のこと。
渋谷文化の象徴のようなビルです。
電話というものがプッシュホン式であった頃から渋谷の覇者でしょう。
渋谷センター街の電飾についても語られています。
憧れている方もいらっしゃるかもしれませんが特に物珍しい商店街ではないです。
しかし渋谷にあるというだけで特別な衣装をまとってしまいます。
これが資本主義社会のイリュージョンなのかもしれません。
原宿のラフォーレも歌詞の中に隠されています。
渋谷とはまた違った印象がある、日本のファッション・文化の発信地の象徴です。
新宿アルタについても隠すように歌詞の中にはめ込んでいます。
巨大なモニターがあるために様々な広告が流されるビルです。
新宿東口で待ち合わせしようとするとどうしてもこの場所を選んでしまいます。
魔法少女はこうした場所に生息しているよというラインです。
歌詞が観光案内のようになっているのが面白いかもしれません。
実際に観光地としても面白い場所でないと魔法少女の心を掴めないのです。
魔法少女は異形の人
若く見えるは褒め言葉じゃない
ルージュの赤魔法ください
まつげの黒魔術ください
ケーキのファンデーションかくして
涙はハートが流した血だから
出典: 魔法少女と呼ばないで/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬
ルージュは赤く、まつげは黒くそれぞれの魔法と魔術に頼ります。
黒魔術についてはコンセンサスがありますが、赤魔法というのはこの歌詞だけのワードです。
できるだけ若く見えるように魔法少女たちは必死なのでしょう。
何で自分はこんなに必死なんだろうと疲れきって涙もこぼれそうです。
その涙は心が疲れている証でもあるのですが、魔法少女は来る日も来る日も再生産されます。
あらゆる情報が女性を駆り立てているからです。
しかし無理が祟っているのは深夜にぽろりと流れる涙で分かるものでしょう。
いつか戦いに疲れたときには魔法少女を卒業する日がきます。
しかし悪質なことに広告や様々な情報がその卒業の日をできるだけ先延ばしにしようとするのです。
これらすべて資本主義社会ゆえのことでしょう。
つまり資本主義社会は女性を可愛くさせる力があることを認めなくてはいけません。
しかし日本社会は「資本主義原理の過剰貫徹」と書きました。
要は資本の要請でやりすぎてしまうまでkawaiiを特化させる癖ができてしまったのです。
このことに眉をひそめる人が内外にいます。
海外では多くの人が日本人は稚く見えると語るでしょう。
それを褒め言葉だと勘違いして日本社会に紹介するメディアもあるのですから手に負えません。
日本国内でもアーバンギャルドのように魔法少女の異様さのようなものをきちんと描く人がいます。
しかしこうした声はもっと大きな音を立てる様々な広告にかき消されてしまうのです。
女性を食い物にしているのは誰
カチューシャは教会に ブレスレットは荒野に
抱きたい誰かでわたしを抱いてるわたしは誰ですか
出典: 魔法少女と呼ばないで/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬
シュールな歌詞は現実の方がねじ曲がっていることを反映しています。
わたしは自分を失くして可愛い女性を目指すのです。
魔法少女が参考にするのは理想の可愛い女性を紹介するメディアでしょう。
女性向けメディアの情報ですが、それが本当に女性のためになるものかは怪しいものです。
女性向けメディアこそが女性を食い物にしていると思わされるときもあります。
魔法少女はこうした傾向には気付いていません。
厳しい競争に打ち勝つためにたくさんの情報を参考にしようとするのです。
そのうち自分というものがこうした情報の中に埋没してゆきます。
一度埋没してしまったアイデンティティは中々再発見できません。
魔法少女は自分って誰なのという思いの中で溺れてしまうのです。
「魔法少女と呼ばないで」はネガティブな現状しか描きません。
そこには先ほど見たように偽りの希望を拒絶する空気のようなものが反映しています。
また日本を戦場に見立てるディストピア小説のような手法を採用しているからでしょう。
そのタイトルを見たときは心躍った人もいるかもしれません。
しかしポップな主旋律とは裏腹のバック・トラック同様にギスギスした世界が広がっています。
アーバンギャルドの毒というものの真骨頂でしょう。