河川と街の人の営みと
ぼくの街に遊びにきてよ
大きな河には 錆びた橋
ひとつひとつ 思い出があるんだ
君にも見せたい いつか
出典: ぼくの街に遊びにきてよ/作詞:スガシカオ 作曲:小林武史
タイトルを回収します。
呼び寄せた街の観るべきものは朽ちた橋だとスガ シカオはいうのです。
朽ちていることが自慢なのではないでしょう。
たとえば錆びている場所などに自分の想い出が重なるような場面があるのです。
君を呼び寄せているのは自分の半生のようなものを知って欲しいからでしょう。
川が海に注ぐ場所のようです。
東京の河川も浄化されてきました。
地元の人々の真剣な取り組みによって魚も鳥も戻ってきています。
公害対策によってきちんと整備されてきた過去があるのです。
ただ都政はビッグイベントや都市開発・再開発ばかりを追求するようになりました。
河川の美しさを取り戻すために都政にはもう少し努力して欲しいかもしれません。
朽ちた橋はいつか再開発の対象になるかもしれないでしょう。
安全性を基準にすると必要な工事もあるはずです。
しかし街の情緒みたいなものは遺した形での再開発を望みます。
想い出の蓄積でできた街
好きになった人に自分の幼少の頃の写真やアルバムを見せる習慣が誰にでもあるはずです。
「ぼくの街に遊びにきてよ」はアルバムの中ではなく実際の街の中で半生を知ってもらいます。
生きている実感と過去といまの時間の繋がりがより深く分かるでしょう。
街を横断する河川にも橋の錆びた鉄の箇所にも想い出が滲みます。
私たちは生きてきた痕跡を実際の街の中に遺して生活しているのです。
大きな想い出話ばかりではないでしょう。
些細な想い出やぼんやりとした記憶なども蓄積していって街は大切なものに変わります。
私たちは生まれ育った街については選んだ土地ではないでしょう。
両親などの事情によってたまたまその街に生まれて住みます。
自分で選んで住んだ街ではなくても大事な想い出が詰まっているでしょう。
幼少期の記憶は両親が問答無用で私たちを守ってくれたお陰で明るいものが多いはずです。
幸せだったときの記憶を好きな人に知ってもらう機会はとても大事。
だからこそ私たちは好きな人に「ぼくの街に遊びにきてよ」と歌うのです。
東京にも足りないもの
寂寥感の正体は何だろう
たまに一人 街角で 突然胸がじくじくと痛む
ひどく大切な 足りない何か…心が軋む
でもそれは 言葉にはしづらい
出典: ぼくの街に遊びにきてよ/作詞:スガシカオ 作曲:小林武史
楽曲「ぼくの街に遊びにきてよ」の中で唯一シビアな思いが綴られる箇所です。
都会の孤独を抱えて生きていることの辛さというものは耐え難いものでしょう。
君という存在がいてくれるのはせめてもの救いかもしれません。
それでも街並みを歩いているときに襲われる寂寥感の正体が知りたくなります。
ぼくは何を嘆いているのでしょうか。
実はぼく自身もその心境を具体的に表現できていません。
理由が分からなくて嘆いているのではないのでしょう。
おそらく思い当たる理由が複数あってその気分が綯い交ぜるように押し寄せてきたのです。
私たちの都会暮らしに欠けているものはたくさんありすぎます。
街並みに情緒が遺っていてもよく見ると監視カメラが新設されているかもしれません。
日本は他人への関心や思いやりというものが諸外国と較べて著しく低くて少ないというデータもあります。
嘆きだって聴きたかった
「ぼくの街に遊びにきてよ」が順風満帆な状況しか歌わなかったならば人の心は打ちません。
嘆きのような箇所があるからこそ私たちはこの曲を歓迎できるのです。
再開発が進む街で変わりゆく地元の姿が悲しくなったのかもしれません。
もしくは長引く不況で街の商店街から活気が失われてゆくことを嘆いたのかもしれないです。
好きだった街が変わってゆくこと。
これは情緒に関わる問題ですのでメンタリティと無関係ではありません。
また再開発は耐震補強以外では栄えている街だけが優先されます。
地元の商店街はこうした波に乗れずに閑古鳥という傾向だってあるはずです。
特に街から活気が失われるのは非常に怖いでしょう。
東京でも限界集落なのかと思わされる高齢化が進んだ土地もあります。
それでも東京への一極集中はさらに加速しました。
商店が失くなって同じようなアパートやマンションが建ち並ぶ街に変わったりもするでしょう。
自分の記憶が削がれてゆくような非情な思いを抱えるはずです。
胸が痛むのも仕方がない現状があるでしょう。
だからこそいますぐ「ぼくの街に遊びにきてよ」と呼びかけています。
想い出の街が変わったり情緒が失われる前に遊びにきてよと願うのです。
「ぼくの街に遊びにきてよ」と東京の風
東京の街並みと美学
ぼくの街に遊びにきてよ
神社の灯りが 綺麗なんだ
君が好きな夕暮れ時にね
願いが叶うよ きっと
振り返ると
風が街を抜けていく
出典: ぼくの街に遊びにきてよ/作詞:スガシカオ 作曲:小林武史
いよいよクライマックスです。
最近のJ-POPの歌詞にしてみると情報量を削ぎ落としてシンプルにした印象があります。
ぼくは神社デートに君を誘うのです。
君の好みを知り尽くした印象がぼくにはあります。
こんな街並みを君は気に入ってくれると思うという自信が透けるのです。
神社などは明治期に街並みを整える事業と国家神道の普及のために各地にできました。
立派な神社ほど新しいものである傾向が都市周辺では見られます。
戦後、国家神道が解体された後こそ神社は地域に根ざすことを目指しました。
東京大空襲ですべてが焼き払われたという事情もあります。
新しい戦後復興の中で東京の街は育ってゆきました。
超有名なデザイナーのアニエス・ベーは東京の街並みをめちゃくちゃと切り捨てます。
街の美観という観点で望むとアジア的ないい加減さというものが東京にはあるのです。
そのごった煮的な美観こそを東京に固有のものだとして愛する人もいます。
美学というものは人それぞれですからこれという正解はないのでしょう。
大切なことはそこで生きている事実を好きな人に知ってもらうことです。