最後のシングル? 「ある光」
プレミア付きの名曲
1997年12月10日発表、小沢健二の通算17作目のシングル「ある光」。
この頃の小沢健二のシングル・リリース・ラッシュは凄まじかったです。
しかしファンの購買力を無視してのリリースが続きすぎました。
この頃の小沢健二のシングルは名曲が多いにも関わらず当時の売上は低迷します。
「ある光」も売上は低調でプレス枚数自体が少なかったのです。
しかし名曲でありさらにアルバム未収録であったため後になって高額のプレミアが付きます。
またこの曲は「小沢健二の最後のシングル」という異名がありました。
このシングルの後に「春にして君を想う」というシングルがリリースされています。
「流動体について」でシングル発表を再開するまでの長いブランクで最後の表題作は「春にして君を想う」。
しかし「春にして君を想う」のシークレット・トラックに「ある光」が丸ごと収録されていました。
この事実をもって「ある光」は「小沢健二の最後のシングル」として評価されていたのです。
「ある光」は小沢健二自身にとってもファンにとってもとても特別な曲であります。
2018年に配信リリースされたこともありこの幻の歌は今やライブでのキラーチューンになるのです。
この曲の歌詞を紐解いて当時の小沢健二の心境に迫ってみたいです。
歌い出しから見ていきましょう。
小沢健二は何処へ向かったのか
祖父の死に接して書かれた曲
新しい愛 新しい灯り
麻薬みたいに酔わせてくれる痛みをとき
連れてって 街に棲む音 メロディー
連れてって 心の中にある光
出典: ある光/作詞:小沢健二 作曲:小沢健二
「ある光」は小沢健二の母方の祖父である下河辺孫一(しもこうべ まごいち)の死去に接して書かれました。
下河辺孫一は大企業「日本鉱業」の会社社長を務めた人物です。
小沢健二の近親が華麗な人脈であるのは周知のこと。
ただこの母方の祖父と小沢健二の交流がどんなものであったのかは想像することしかできません。
死去の報に接して書かれた歌詞にしては「ある光」に死の香りはないです。
むしろ生への過剰なまでの執着が描かれています。
それでもこの歌で触れられる光というものについて考える際に祖父の死のエピソードはヒントになります。
歌い出しでは生まれたばかりの愛、人の灯す街の光と心の中に灯る光について触れます。
小沢健二は行く末を街の挙動や心模様に預けてどこか新しい場所へ連れてゆかれることを望むのです。
彼は一体何処へゆこうとしていたのでしょうか。
もう少し歌詞を見ていきましょう。
線路を降りるということ
花火の最後の華やかさ
この線路を降りたら赤に青に黄に
願いは放たれるのか?
今そんなことばかり考えてる
なぐさめてしまわずに
出典: ある光/作詞:小沢健二 作曲:小沢健二
線路を降りるというラインが様々な憶測を呼びます。
しかしその議論は小沢健二がニューヨークへ移住した後に起きた議論でした。
「ある光」発表当時、線路はただの線路であり後で気付かれるほどに重要なものとは思われません。
発表当時のリスナーはリリース・ラッシュする彼の疾走感にこそ興奮していました。
「ある光」の楽曲自体が疾走感に溢れたサウンドであることも手伝って重要な部分に気付かなかったのです。
しかし小沢健二はこの曲「ある光」を最後に残して本当に線路を降りてしまいます。
ニューヨークへ移住してシングルでの作品発表を休止しました。
線路とは「渋谷系の王子様」と囃し立てられた季節のことだとリスナーは後になってから気付きます。
異常なほどのシングル・リリース・ラッシュは最後の打ち上げ花火の美しさであったのだと解釈されました。
そのことに気付いたときにはプレス枚数が少ないですから市場での入手が困難になっています。
小沢健二はニューヨークからアルバム2枚を届けてくれましたがこれらは先進的すぎるサウンド。
キラキラで分かりやすいポップスを奏でてくれた小沢健二の姿は2017年の「流動体について」までお預け。
リスナーは20年近くもの間、辛抱しなくてはならなかったのです。
彼が「ある光」で線路を降りてまで連れて行ってと願ったのは誰もが異邦人になれるニューヨーク。
街を歩いていても騒がれることのない新しい街を小沢健二は探していたのでしょう。
時代の寵児の苦悩
ワーカホリックの休息
見せてくれ 街に棲む音 メロディー
見せてくれ 心の中にある光
この線路を降りたら赤に青に黄に
願いは放たれるのか?
今そんなことばかり考えてる
なぐさめてしまわずに
出典: ある光/作詞:小沢健二 作曲:小沢健二
ワーカホリックの小沢健二が休息を欲しがるなんて当時は考えられなかったです。
今でこそ小沢健二は自分の生活ペースを基軸にして作品を発表してゆく大人のアーティスト。
しかし当時の王子様は働き者でした。
フリッパーズ・ギター解散後、小山田圭吾よりも早くソロ活動を開始します。
ソロ・デビュー・アルバム発表と同時にフリー・コンサート。
そして「今夜はブギー・バック」やアルバム「LIFE」の大ヒットで一躍、時代の寵児になります。
その後は「オザケン世代」という言葉が生まれるほど時代を彩る数々の名曲でリスナーを魅了しました。
湧き出る創作意欲はとどまることを知らず作品を乱発。
あまりのリリース・ラッシュにファンの懐が枯渇してゆく。
そのために売上は後退してプレス枚数に制限がかかりました。
小沢健二は「消費されるなら何処までもやってやる」という気概と迫力で作品を立て続けに発表し続ける。
そのことにカタルシスを見出していたのでしょうがさすがに続かなくなります。
新しい価値基準を自分の中に打ち立てて音楽と接したいと考えるようになりました。
線路を一度降りて街中に新しいメロディーや新しい愛が溢れるニューヨークへの移住を決めるのです。
そうした事情を彼は「ある光」の歌詞でここまで率直かつ赤裸々に歌っています。
しかしその真意にリスナーが気付いたのは彼の存在が遠くなった後でした。