流されているだけの自分に気づく

最近、忘れていたな…
立ち止まってみること
はぐれた雲みたいに ボクは
街と社会(ひと)に流されていた

出典: 夏模様/作詞:Satomi 作曲:林田健司

ここでは、主人公の今の自分を見つめ直しています。

主人公は、目の前のことに一生懸命過ぎて、自分自身のことに目を向けられていなかったと感じたのでしょう。

今自分は人生の中でどのような位置にいるのか。

何のために生きているのか、これからどこに向かうのか…。

そういったことを何も考えずにただひたすら目の前のことをこなす日々。

そこに自分の意志はなく、ただ周りに合わせるように過ごしていたのでしょう。

そのことに気づき、はっとするのです。

はぐれた雲に込められた思い

「まとまった雲」ではなく、どうして「はぐれた雲」なのでしょうか?

これは自分がなりたかった自分になれていない現実を意味しているのでしょう。

「はぐれる」という言葉には自分の意志はありません。

知らず知らずのうちに仲間ともはぐれてしまい、気づけば一人漂っていた

こんなはずじゃなかったのに。

でも他には選択肢がなかったといった虚しさもある。

そのような雰囲気が感じられます。

幼いころは、未来に大きな夢期待を抱いていたのに。

気付けば何者でもない自分がいる。

昔の自分自身に申し訳ないようないたたまれない気持ちが含まれているでしょう。

主人公の中にある大切な記憶と芽生える意志

同じ情景を言葉を変えて表現

水彩画で描いたような
夕暮れのなかを
ボクは走ってた 蒼い夏の日

出典: 夏模様/作詞:Satomi 作曲:林田健司

水彩画油絵とは違い薄く滲むような色合いが特徴。

重ね塗りをしても先に塗った色の影響を受けてしまいます。

ここは先の歌詞に出てきた「夕陽が滲んでいた」を違う言葉で表現しているでしょう。

いろいろな色が重なって、何色なのかはっきりとした答えがない夕暮れの色

その中を幼少期の主人公は走っていた。

同じ情景でも、言葉の違いによって想起される印象が少し変わってきます。

主人公自身も、その夏の日の思い出は一言では言い表せられないのでしょう。

それほどまでに主人公の中で強く印象に残っている思い出なのです。

「逢いにゆく」に込められた思い

アザミの咲く小路(こみち)で今も
蝉時雨(せみしぐれ)はまだ聞こえますか?
あの日にはもう戻れないけれど
いつかの夏模様
今度、逢いにゆこう…
逢いにゆこう。

出典: 夏模様/作詞:Satomi 作曲:林田健司

ここでは、今の主人公が、思い出の故郷へ向けて語り掛けています。

昔と比べて、今の自分はすっかり変わってしまった。

けれど故郷にある思い出の場所はまだ、変わらずにあるのだろうか。

もしあるなら、今度訪れよう、と決意しています。

歌詞では「訪れる」ではなく「逢いにゆこう」と表現しているのはなぜでしょうか?

思い出の地に訪れることで、自分の中にある思い出に逢いにいきたいのです。

本当に触れたい、逢いたいのは自身の中で眠っている昔の思い出

今ある思い出の地に行くことで、忘れていた懐かしい記憶をよみがえらせたいのです。

記憶を蘇らせることで、主人公自身が初心に還りたいという気持ちがあるのでしょう。

大切なことに気づいた主人公

瞳閉じて見上げた空を
駆けてゆく風は 忘れかけた
蒼い夏と同じにおいがして
笑顔が込み上げる

出典: 夏模様/作詞:Satomi 作曲:林田健司

ここでは、の主人公の気持ちを表現しています。

主人公は試しに、深呼吸をするつもりで目を閉じ、都会を吹き抜けるを感じてみたのでしょう。

すると、微かではあるけれど、故郷と同じ空気を感じられたようです。

そこで、主人公は気づいたのでしょう。

大切なのは、場所ではなく気持ちだということに。

昔故郷で感じていた自由は、その場所その時間でしか得られないと思っていた。

けれど実はそうじゃない。

どの場所であっても、自分の気持ちや志が変わらなければ自由でいられるはずなんだ。

そのことに、今まで自分が気づかなかっただけ

故郷の記憶はいつだって自分の中にあったのです。

そのことに気づいたとき、主人公の胸が弾み、思わず笑みがこぼれたのでしょう。

そして歌詞はこの最後の一文で終わります。