違和感も常識も 多数決で決まるなら
もしかしたら当たり前も もう疑うべきかもな
もういいよ いいよ この町は忘れ去られた
良からぬ事を企てるには丁度いいかもしれない
賛成か 反対か 是非を問う 挙手を願う
出典: 多数決/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
たとえば、自分たち世代の常識が、親の世代に通じなかった経験はありませんか?
「常識」と呼ばれるものなんて、きっと時代によってコロコロ変わっていますよね。
世代間だけではなく、国によっても、置かれた状況によっても、常識や当たり前の概念は違う。
常識や当たり前の中には、いま生きている世界にとって正しい事も、間違っていることもない交ぜになっているはずです。
極論ですが「戦時中だと英雄、平時だと殺人鬼」という話も、その類だと思います。
そんな流動的な基準を鵜呑みにして、排除されてしまうことのほうがよっぽど違和感を感じませんか?
また、国に対しての都道府県、都道府県に対しての市町村。多数決でいえば、東京都に勝てる都道府県はありません。同じ日本でも、絶対的な差を感じます。
作詞を手掛けた秋田ひろむさんは、青森県出身で現在も青森市在住ですが、青森に限らず、日本中どこへ行っても東京の情報が溢れていますよね。
反対に、東京が地方の一都市を消費以外の意味でクローズアップすることはほぼ無いのではないでしょうか。
それは地方にとって「忘れ去られた」のと同じ、なのかもしれません。
札束の数 名誉の数 友達の数 勲章の数
勝ち越した数 賞状の数 努力した数 褒められた数
僕らの価値は数字じゃない
自分の評価を人に任せるわけにはいかない
世界は移り変わる 昨日の価値は今日の無価値
出典: 多数決/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
家庭でも学校でも社会に出ても、評価は常に他人から下されるものですよね。
本当はそうじゃなくても、他人が「こうだ」と思ったことが、そのまま自分の点数になってしまう。
美術の教科書に載っているような画家でも、生前は食うや食わずの生活で制作活動をしていた、というエピソードを持つ人はたくさんいますよね。
ウン千万円で取引されている絵画も、生きているときに相応の値段で売れたわけではありません。
亡くなった後に誰か偉い人が評価した結果、現在の価値になったものも多いのです。
逆に、昔は評価されたけれど今となってはほぼ無名、コレクターが少ないので価値もあまりつかない、という画家も星の数ほどいるはずです。
移り変わる世界の中で、目に見えるものだけで決められた他人からの評価、誰かがそう言ったから決まる価値なんてアテにしている場合ではありません。
自分で、本当の自分の価値を見出すことが、明日からの自分の価値を作り出すことに繋がるのだと感じます。
罪悪も合法も 多数決で決まるなら
もしかしたら百年後は もう全員罪人かもな
もういいよ いいよ この世界は壊れすぎた
白紙から描き直すには丁度いいかもしれない
賛成か 反対か 是非を問う 挙手を願う
出典: 多数決/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
アルバムタイトルが意味するところでもある、百年後の未来。
今から百年前は大正時代、日本が連合国として参戦した第一次世界大戦がちょうど終わった頃です。
それを考えると、長いようで短いこれから百年の間にだって、価値観も、常識も、罪悪感すらも変わっている可能性はありますよね。
たとえ僅差で拮抗していたとしても、0か100か、白か黒かになってしまう多数決。
しかしそれは、誰もが誰かを傷つける、加害者に回る可能性も同時に持ち合わせています。
多数派の意見を尊重し続けた百年後は、現在の基準で言えば、もしかしたら全員罪人かもしれない。
それでも、本当に多数派だけが正しいのか。多数派だけが尊重されるべきなのか。
多数決という仕組みと、多数派だけを是とする風潮を見直してもいいはずだ。
少数派の意見に耳を傾けてくれる、新しい世界を迎えてもいいはずだ。
あなたは、どう思いますか?
少数派が生きづらい世の中で
画一的な価値観の中で何の疑問も持たずに過ごしていればいいけれど、それを少しでもはみ出すと途端に「少数派」にされてしまう。
多様性を謳う社会で、なぜか多様性が認められずに爪弾きにされてしまう。
本当にそれでいいのか、この生きづらい世の中のほうがおかしいとは思わないのか。
そう問いかける「多数決」の歌詞を追っているとき、ふと、とある漫画の一節「”死にたい”は”生きたい”だ」を思い出しました。
「もういいよ いいよ」と投げやりなように見えて、実際は”どれだけこの世界で生きたいか”を、強く歌っている曲なのだと感じます。
圧巻のライブパフォーマンス!
文章を目で読むことと耳で聞くことは、同じように「知覚」と呼ばれますが、脳で受け取った時点では単なる情報に過ぎません。
そのふたつはそれぞれ大脳へ送られ、情報の羅列ではなく文章、意味を持つ言葉として「認知」されます。
読書を例に挙げると、一般的に”読む”ことは自分の内面から生まれる世界を構築していく作業だと思います。
また、同じ文章の朗読を”聞く”際には、雰囲気や情感などが朗読をする人の表現や場によって共有され、イメージが自分の外へ広がる傾向にあると思います。
スクリーンによって歌詞が映し出されるamazarashiのライブは、そのふたつを同時に行っているような感覚を覚えます。
ライブ映像はこちら!
この「多数決」はシングルカットされていないアルバム曲で、このライブはアルバム発売直後のツアーファイナルの様子です。
曲を知って歌詞を読み、映像で見ている今でも鳥肌モノですよね!
しかし、ツアー前半の公演ではアルバム発売前だったどころか、初日の時点ではまだMVすらアップされていなかったはず。
本当にリアルタイムで、目からと、耳からの情報を必死に追ったファンの衝撃は計り知れません。
願わくは、その場に居合わせてみたかった…!
”少数派”を歌うamazarashiが、多数派になるとき
amazarashiというバンドの根本にあるテーマは「負を正に浄化する」です。
今回ご紹介した「多数決」でも触れているように、”負”にされているのは往々にして少数派であることも多いですよね。
しかし、amazarashiは少数派の叫びを歌いながらも、着実にファンを増やし、今や人気バンドといっても過言ではなくなってきていると思います。
ですが、ある方向から見ると多数派に属していても、別の角度から見ると少数派だと感じることって、世の中たくさんありますよね。
amazarashiが少数派を代弁した楽曲を発表し、多数派に属しているように見えても「自分は少数派だ」と感じる人が存在して、受け取る。
これからも、amazarashiはそんな少数派を掬い取ってどんどんファンを増やしていくでしょう。
それはきっと決して憂うべきことではなく、どこかの、少数派だと思っている誰かが救われた数なのではないかと筆者は思います。
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