Eve
ニコニコ動画のカテゴリー"歌ってみた"で活躍する人気の歌い手です。
2009年から動画投稿を開始し、ボーカロイドで作られた楽曲を歌うなど活躍しています。
なんとすでに3枚のアルバムをリリースしています。
また2017年12月13日には4枚目のアルバムで自作曲を含む10曲収録した最新アルバム『文化』をリリースします。
これまではナユタン星人の楽曲などボーカロPの曲を歌うことも多かった彼。
今作で歌い手としてではなく、シンガーソングライターとしてブレイクする可能性もあるかもしれません。
このアルバム「文化」に収録される「ドラマツルギー」は初音ミクなどのボーカロイドを使用した曲ではなく、Eve本人が作詞・作曲し、なんと再生回数が200万回を超えています。
米津玄師などネット発のアーティスト活躍する現在、ネクストブレイクはEveかもしれませんね。
Eve「ドラマツルギー」をYouTubeでcheck!
独特のアニメーションと音楽のコラボがとても興味深いMVです。
ひょっとするとアニメーションと楽曲をあわせてひとつの作品になっているのかもしれません。
歌詞が難しいこともあって、思わず何度も見返してしまいます。
でもなんとか自分なりに解釈してみようと思います。
Eve「ドラマツルギー」を解釈する
まずタイトルの意味を調べてみましょう。
ドラマツルギーとは?
辞書には、ドラマツルギーとは、
1.戯曲の創作や構成についての技法。作劇法。戯曲作法。
2.演劇に関する理論・法則・批評などの総称。演劇論。 とあります。
歌詞を少し読んだところだと人生を演劇的に表現している部分もあり、作品の内容と大きく関係がありそうですね。
頭でわかっては嘆いた
転がってく様子を嗤った
寂しいとか愛とかわかんない
人間の形は投げだしたんだ
抱えきれない 言葉だらけの存在証明を
出典: https://www5.atwiki.jp/hmiku/pages/36818.html
すごく難しい歌詞ですね。 まず頭ではわかって嘆いていた自分がいます。
そして誰かが転落していくことを嗤っていた自分がいます。
"寂しい"とか"愛"などの感情がわかりません。
これは世界を情緒的に理解するのではなく、言葉で理解しようとしていたのだと思います。
でも言葉ばかりにとらわれていると、自分というものが何なのかわからなくなります。
世界は言葉でできているわけではありません。
自分自身もそうです。
でも言葉で理解しようとしているから自分の存在証明も言葉でしてしまうのです。
この小さな劇場(はこ)から出らんない
気づいたら最後逃げ出したい
僕ら全員演じていたんだ
エンドロールに向かってゆくんだ
さあ皆必死に役を演じて傍観者なんていないのさ
出典: https://www5.atwiki.jp/hmiku/pages/36818.html
次に世界を小さな劇場のように捉えています。
そしてそこから逃げ出したいと考えているのです。
自分たちが何かを演じている存在であり、映画のようにエンドロールがあると考えている作者がいます。
そして全員がこの劇の演者であると断定しています。
これは世界のものの見方のひとつであると思います。
世界を舞台ととらえること、劇的なものとして捉えられるのは言葉を中心にしているからです。
しかしそれは一種の現実からの乖離だと筆者は考えます。
こういうこの世界は現実だろうか? それとも虚構だろうか? そう疑う価値観はよくわかります。
押井守の映画作品のテーマなどと通じる部分があると思います。
"ワタシ"なんてないの
どこにだって居ないよ
ずっと僕は 何者にもなれないで
出典: https://www5.atwiki.jp/hmiku/pages/36818.html
言葉により構築された映画のような世界の中で、自分というものが何かわからない"ワタシ"がいます。
そしてそういうものは元々ないのだと誰かが言っています。
ここではずっと何かになれると思っていた僕が何者にもなれないという部分が響いていますね。
僕ら今 さあさあ 喰らいあって
延長戦 サレンダーして
メーデー 淡い愛想
垂れ流し 言の愛憎
ドラマチックな展開をどっか期待してんだろう
君も YES YES 息を呑んで
采配は そこにあんだ
ヘッドショット 騒ぐ想いも
その心 撃ち抜いて さあ
まだ見ぬ糸を引いて 黒幕のお出ましさ
その目に映るのは
出典: https://www5.atwiki.jp/hmiku/pages/36818.html
この歌の世界観では、僕らは競争の中で、まるで野生動物のようにお互いを"喰らいあって"生きています。
そしてとうの昔に終わったはずのゲームは延長戦に突入して、その延長戦を生き延びなければならないのです。
この現実というゲームの中で、労働者の連帯を意味するであろうメーデーは愛想のような態度でしかないのでしょうね。
連帯というものの可能性がやんわりと否定され、あくまで世界は生き残りをかけた競争であるという考えがこの歌を支配しているのかもしれません。
また世の中が変わったり、人生が好転したりという希望は、"ドラマチックな展開を期待している"と否定されます。
こうなるともう"YES"と世界に対する皮肉をふくんだ肯定でしか捉えられず、息を呑んで何も言えなくなるのでしょう。
ゲームや世界の采配を握っているのは黒幕であり、自分ではありません。
そういう主体を失った人間が描かれていると思います。
ヘッドショットとは銃火器などで人間の頭部に弾丸を命中させることです。
ここでは明らかに周囲の人間への狙い撃ちがなされ、頭に対しても、心に対しても攻撃をしようとしています。
そしてついに世界を操る黒幕が登場すると予告されてこの歌は終わります。
その黒幕とはいったい誰でしょうか?
人々は誰かに操られて、舞台上で役割を演じてるだけなのでしょうか?
触れたら壊れてしまった
間違ってく様子を黙った
僕ら全員無垢でありました
いつのまにやら怪物になったんだ
その全てを肯定しないと前に進めないかい
出典: https://www5.atwiki.jp/hmiku/pages/36818.html
世の中や自分自身が間違っていくことに沈黙を続けたのでしょう。
そして他人に触れたら、壊れてしまったのです。
自分たちは無垢だったけれど、いつのまにか怪物になっています。
この間違った現実を否定したい感情があっても、肯定しなければ前にすすめないのか? と問いかけがあります。
この自分が怪物であるという感覚は理解が難しい部分だと思います。
自分が何か巨大な間違った存在になっていることを歌っているのでしょうか?