中島美嘉「僕が死のうと思ったのは」

『僕が死のうと思ったのは/中島美嘉』の歌詞が深すぎる。”死”をテーマにした今作の歌詞の意味を解説!の画像

2013年8月28日にリリースした38thシングル

この衝撃的なタイトルに思わず曲を聴いてしまったという人も多いのではないでしょうか。”死”をテーマにした楽曲ですが、これほどストレートに表現している曲も珍しいと思います。

「僕が死のうと思ったのは」というタイトルからはネガティブなイメージを持ってしまいがちですが、最後まで聞くと素晴らしい人間賛歌の曲であることが分かるでしょう。

6:20秒という長い曲の中で、徐々に受け取り手の感情が変化していく所が魅力のロックバラードですね。

中島美嘉も最初にデモテープを聴いた時には、「これは私のことを代弁してくれている楽曲だ」と涙したといいます。

カップリングには「かんぽ生命」のCM曲としても起用された14thシングル「桜色舞うころ」のアレンジバージョンと、「Today」が収録されています。

初回生産限定盤と通常盤の2種類があり、初回生産限定盤には「僕が死のうと思ったのは」のMVが収録されていますよ。

イラストレーターYKBXともコラボ

『僕が死のうと思ったのは/中島美嘉』の歌詞が深すぎる。”死”をテーマにした今作の歌詞の意味を解説!の画像

「僕が死のうと思ったのは」は、amazarashiとのコラボレーション楽曲なのですが、amazarashiにもイラストを提供しているYKBXも参加しているんですね。

ジャケットやPVに登場する少女を描いているのですが、時々現れる少女のその表情は深く、絶望とも喜びともとれるイラストが魅力的ですね。

楽曲提供はamazarashiの秋田ひろむ

心に刺さる歌詞を生み出す天才

この楽曲を提供したのは、日常に降りかかるすべての苦しみが雨の様に降り注ぐとしても歌い続けたいという想いから名づけられた「amazarashi」のボーカル&ギター・秋田ひろむです。

もともと独特な世界観をもち、人間の内なる感情をさらけ出す歌詞を書く秋田ひろむは、現代社会の風刺的な歌詞も多く、ずば抜けた詞世界に定評があります。

そんな彼は、常に”死”を意識していたといいます。常に死にたいと思って生きてきたといい、その死にたい僕を説き伏せるために曲を作るというループの中で生きてきたそうです。だからこそ、この楽曲が生まれたのでしょう。

この曲の不思議なところは、死のきっかけがとても身近なところにあるところではないでしょうか。

”死”を意識していない人にとって、”死ぬ”ということはとても大きな出来事であり「死のう」と思うまでにはとても大きなエネルギーが必要になってきます。

しかし、日常から”死の存在”を感じている人にとっては、きっかけはほんの些細なことだと上手く表現している歌詞が魅力的ですね。

中島美嘉側からオファーを受けたという秋田ひろむは、手元で温め続けていたこの楽曲を提供し、中島美嘉もよくこれをわたしに提供してくれたと感謝するほど気に入ったとコメントしています。

それでは、歌詞の力強さ、言葉選びが秀逸なこの楽曲の歌詞の意味を紐解いていきましょう。

「僕が死のうと思ったのは」の歌詞

とても身近なきっかけ

僕が死のうと思ったのは ウミネコが桟橋で鳴いたから
波の随意に浮かんで消える 過去も啄ばんで飛んでいけ
僕が死のうと思ったのは 誕生日に杏の花が咲いたから
その木漏れ日でうたた寝したら 虫の死骸と土になれるかな

出典: https://twitter.com/wakasamaaaaa/status/915522079193100288

インパクトのある出だしから始まります。この曲のいたるところに、僕が死のうと思った理由が散りばめられているのですが、その理由を引き出す内なる感情は様々であることが感じられますね。

最初に僕が死のうと思ったのは、桟橋でウミネコを感じたから。

青森出身の秋田ひろむにとってとても身近な生き物だったのかもしれませんね。

もしこのまま海に飛び込んで命を落としたとしたら、自分の体も忘れたい過去もウミネコの強固な嘴でついばまれ、ウミネコの一部となってどこかへとんでいくかもしれない、そうなればいいのにという想いが感じられます。

「杏」の種は、生薬にも使われ中国では薬としても重宝されていた花です。

自分が生まれた日に、人々を癒す杏の花が咲いたことで、もし木の下で命を終えたなら、木の栄養となり自分も人々から必要とされる杏の木の一部になれるのではないかと思っているようですね。

薄荷飴 漁港の灯台
錆びたアーチ橋 捨てた自転車
木造の駅のストーブの前で
どこにも旅立てない心
今日はまるで昨日みたいだ
明日を変えるなら今日を変えなきゃ
分かってる 分かってる けれど

出典: https://twitter.com/Lili_x_x/status/907963372921950208

日本の漁村を思い出させる懐かしくもどこか寂しいフレーズがいくつも出てきます。

筆者はサクマドロップスの中でハッカ飴だけをよけて食べていた記憶があります。人が直す気もない錆たアーチ橋、使わなくなった自転車、木造の駅。どれも、どこか除けものにされているという雰囲気を感じるのは筆者だけでしょうか。

捨てられたものが集まり時間が止まったままのように感じる世界で、毎日を過ごしていると昨日も今日も変わらずに、自分が立ち止まっているみたいに感じてしまうんですよね。

何がいけないのか、わかっているけれど動き出せない。そんな気だるさが表現されています。

僕が死のうと思ったのは 
心が空っぽになったから
満たされないと泣いているのは 
きっと満たされたいと願うから

出典: https://twitter.com/Lili_x_x/status/907963372921950208

心が満たされなくて泣いているのは、心のどこかで満たされたいと願っているから。

この言葉に気付かされた人も多いと思います。今の人生に満足できないのは、満足したいという心があるからなんですよね。

そして、「死にたい」と思うのは、自分が生きているということをはっきりと意識しているからなのです。

「生きていたくない」と絶望を感じるのは、心の奥底で、もっと生きていたいと願っているからではないでしょうか。