茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
 短い夏が終わったのに今、子供の頃の寂しさがない

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そんな「僕」の地点は、「今」にある。

「短い夏が終わったのに」というところに、かつての「もの」たちとの隔たりがある。「僕」はもう、子供の頃の寂しさをそのままに感じることができずにいるのだ。

 それに気付いた「僕」の心の揺らぎを映し出すように、曲は一気に転調する。

先が見えすぎてしまう賢い「僕」の虚しさ

君に伝えた情熱は呆れるほど情けないもので
笑うのをこらえているよ 後で少し虚しくなった

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「僕」は「君」に想いを寄せている。けれどもそれは「呆れるほど情けないもの」で、「笑うのをこらえている」ことが「後で少し虚しく」なる。

この、いま寄せている「君への想い」に折り重なった、自分の心に素直になれずに目隠しをしているような心の動きは、どこからくるものなのだろう。

 

恋をしたときの情熱というものは、振り返って思うと誰しも、少し気恥ずかしくなるようなものだろう。そしてその情熱の豊かさは、かつての自分の情熱に値しない今の自分を「情けない」と感じさせるかもしれない。

しかし「僕」は、いままさに「君」への情熱を持ちながら、そこに居留まろうとしない。その姿は、死を間近にした老人が若かりし頃の恋を回想するかのようだ。

そしてそれは、気丈にも老成しようとしている姿のようにも、「素直に気持ちを感じられない」というその自分に、あえて居留まらなければならないと思い込んでいる姿のようにも映る。

 

そんな「僕」は、自分の気持ちを自分がそのままに認められないことに、つい「笑うのをこらえて」しまう。そして、笑いをこらえたそのが、自分の気持ちに目隠しをしきれていないことに気が付いて、「後で少し虚しく」なってしまうのだ。

僕じゃきっと出来ないな
本音を言うことも出来ないな
無責任でいいな ラララ そんなことを思ってしまった

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「僕」が「本音」を言うことができないのは、情けない自分ではいられないからだ。そして「無責任でいいな」と感じてしまうのは、「少し虚しく」なったからだろう。

きっとそんな「僕」は、少し賢すぎ、少し先が見えすぎていて、いまそこにある自らの情熱に身を任せることすらできずにいるのだ。

「切なさ」の後ろ側にひそむ息苦しさ

しかし、この『茜色の夕日』という曲が、恋心に対する奇妙なねじれた想いを表すだけにとどまるのであれば、この曲がこれほどまでにファンの心をつかむことはないだろう。

わたしたちはなぜ、この曲を聴くと、「切なさ」をおぼえるのだろうか。

 

ボーカルの市村正彦のまなざしが、詩人の中原中也に似ていると取りざたされることも、この曲を読み解く鍵になるかもしれない。ボーカルの市村と詩人の中也には、若くしてこの世を去ったという共通点がある。

しかしただそれだけならば、ありふれた話だ。

 

もう少し踏み込んで、中也の『詩人は辛い』という作品を読んでみよう。

似通う市村と中也のあり方

『茜色の夕日』の切ない歌詞に注目!フジファブリックの美しいバラード楽曲!の画像

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私はもう歌なぞ歌はない
誰が歌なぞ歌ふものか

みんな歌なぞ聴いてはゐない
聴いてるやうなふりだけはする

みんなたゞ冷たい心を持つてゐて
歌なぞどうだつたつてかまはないのだ

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ここで中也は「誰が歌なぞ歌ふものか」とうたってみせる。それはみんなが冷たい心を持っていて、聴いているふりだけしかしないからだ。だから「私はもう歌なぞ歌はない」と。

この『詩人は辛い』の「私」と、『茜色の夕日』の「僕」のあり方は似てはいないだろうか。

 「僕」は「君」への想いを客観的に眺めきれない自分を、「笑い」で納得させようとしている。そして中也は、歌というものの底力と魅力を知り尽くしながら、あえて「歌なぞ歌ふものか」という

「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」時代の後に

90年代の終わり頃、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」というシニカルなフレーズが語られた。

「社会を変えるような理想」や「燃え上がるような恋」など、誰にも反論がしようのない正しいことなんて、この世界には何ひとつない。みんながそれぞれ、自分の世界を生きている。だとしたら、決まったものの見方や態度にこだわらずに軽く生きてみたらいいのではないか。

そんなメッセージがこの言葉には込められている。

『茜色の夕日』の切ない歌詞に注目!フジファブリックの美しいバラード楽曲!の画像

そしてその言葉が生まれたということは、逆に言えば「社会を変えるような理想」や「燃え上がるような恋」のような反論できないような物事の価値を、みんなが信じようとしていたということの証でもある。

 

「息苦しさ」を背後に持つ「切なさ」

しかし、そんな「誰から見ても正しいこと」が辛うじて残っていた90年代とは異なり、絶対的な価値などないということは、現代のわたしたちにとってはもはや、当たり前の前提となっている。

 

もちろんそうだとしても、人は日々を生きている限り、自分がしようとしていることに、意味や価値を感じざるをえない。しかしその一方で、もはやそのような意味や価値を見出そうとすることに醒めてしまったわたしたちは、そんな正論は、大声ではとても言えない。

だからこそ、言えない、というそのことに、居留まろうとしてもがく。「僕」が「素直に気持ちを感じられない」というその自分に、あえて居留まろうとするのと同じように。

 

「茜色の夕日」から響いてくるのは、単なる「切なさ」ではない。自分の心が素直に感じていることを、素直には言えず、その素直でないことに居留まっていなければならない、と無自覚に思い込んでいるところからくる「切なさ」だ。

 

この切なさは、「息苦しさ」を背後に持つ、切なさだろう。