自分を嫌っても
自分は駄目な人間だ、自分が大嫌いだ。
そんなことを時折耳にします。
他人にはそれぞれ理想があってそこに届かないとどうしても自分を悪く言いがちです。
けれども自分からは逃げられません。
そして嫌い続けるのは実はとても体力のいることなのです。
良いところを考えて
語彙が豊富です 造詣が深いです 機械の力です
水掛け論が得意です あまりよくないあたま
芸術に関しては 見る目がある気がする
あれは駄目であれは良い 趣味のお話
出典: イノセント/作詞:藤原基央 作曲:藤原基央
才能を言い訳にして何もしないままの自分。
そんな自分にもいいところはあるといいところを羅列します。
まず知識が豊富だということ。
言っている物事が多いのはそれだけで強みですからこれは確かに長所です。
しかしその後に来る機械という言葉。
聞かれたらその都度、機械で調べているから自分の知識じゃないという揶揄でしょうか。
「水掛け論」とはお互いの主張をいいあって決着のつかない議論の事。
自分の主張を押し付けるだけでは議論になってすらいません。
芸術は音楽とか、絵とかいろいろなものを指すのでしょう。
音楽を聴いてこれは良い、これは駄目だと主張する。
批評するならば客観的な意見も必要です。
しかし根拠がないままの好き嫌いはただの主観です。
主観だらけで責任のない意見はプロの世界では通用しないもの。
趣味にすぎないと切り捨てられても仕方がありません。
好きの反対は嫌いではない
自分を嫌えば許される それは間違い
自意識が過剰 そもそも嫌えていない
出典: イノセント/作詞:藤原基央 作曲:藤原基央
自分にはいいところはなくてそのくせ他人を馬鹿にする駄目人間で。
自分を卑下する人はいたるところで見受けられます。
他人を卑下するよりはマシだろうと思えそうですがそれは間違い。
過度に卑下されたところで周りは面倒くさく思うだけです。
かまってほしいのではないのかと穿った見方もしてしまいます。
自分を嫌うということは自分を意識していること。
自分嫌いは自意識過剰というのは目から鱗が落ち、納得できる発想です。
好きの反対は無関心とはよく聞く言葉。
嫌いの中にどこか好きが含まれている可能性もあります。
少なくとも自分を起点に考えていることは間違いありません。
チャンスだけでは意味がない
恵まれていたとしても 才能とチャンス 生かせただろうか
出典: イノセント/作詞:藤原基央 作曲:藤原基央
記事の最初の方できっかけがないことを言い訳にする人の話をしました。
これはきっかけを得られた仮定の話です。
きっかけを得られたとしてもそれを生かすことができただろうかと自問しています。
例えば、超能力を使えたらと夢見たとしましょう。
超能力を使えたらその力を使って多くの人の役立つ自分を夢想して。
しかし人助けなんて超能力がなくてもできることです。
ゴミを拾うとか倒れている花壇を直すとか、そんな簡単なことで構いません。
そんなこともできない人が超能力を得たところで人助けができるとは思えません。
きっと恵まれていないと思っているだけで今までもチャンスはあったのではないでしょうか。
チャンスはあったけれども素通りしたままで終わってしまっただけなのでは。
何かを成すためにはチャンスも才能も必要です。
石ころを磨いても宝石にはならず、宝石の原石でなければ意味がありません。
ですが、努力で才能を磨かなければその辺の石ころと何も変わらないのです。
恵まれていることと生かせることはまた別の話ですから。
見守る誰かから
世界も自分も
信じなくていい 手は挙げなくていい
認めなくていい すべて君が正しい
地球は綺麗事 君も僕も誰でも何でも
君の嫌いな ただのとても 綺麗な事
出典: イノセント/作詞:藤原基央 作曲:藤原基央
この曲は2つの視点で語られています。
1つはチャンスがないと嘆いている人。
もう1つは嘆いている「君」に対して優しく語りかけている人の視点です。
「君」視点の歌詞は鏡を見ているみたいに突き刺さります。
こんな自分じゃだめだと分かっているけれど変わることができたいという嘆き。
他人を馬鹿にして目の前の現実から目を背けている自分が嫌いでたまらないのでしょう。
そんな君に対して「僕」が告げる言葉は、君は正しいということ。
例え君自身が信じることができなくとも認められなくとも、主張を述べることができなくとも。
どんな人間であろうとそれでいいと肯定してくれる声は力強いものです。
「人間は生きているだけで素晴らしい」。
それは鳥肌が立ちそうな綺麗事。
努力とか素直さを恥ずかしいという人間にとっては恥ずかしくてたまらない綺麗事です。
行動できず他者を非難し、そんな自分を嫌いだと思いつつもどこか諦めきれない。
そんな人は自分を綺麗だとは思えないのではないでしょうか。
だからこそ綺麗なものを嫌っているのかもしれません。
ですが、そこまで悲観する必要もないのでしょう。
世界も自分も思っているほど綺麗なものではなく、同時に汚いものでもないのです。