ナカシマ曰く、おいしくるメロンパン楽曲はいわゆる「メッセージを伝える」という類のものではないという話。

「背中を押すような」だとか「そっと慰めてくれる」だとか、強いメッセージを持った楽曲が世の中には溢れています。

アーティストというのは、何かメッセージを発信するものだという固定観念すらあるのではないでしょうか。

メッセージが意味を持つのはその人の経験があってこそですが、対するナカシマは自身の楽曲を「全部フィクション」だと言い切ります。

メッセージ性は必ずしも必要ではない

例えば小説を読むときに、全ての作品にメッセージ性を求めるでしょうか?

ただ読んでその世界観を楽しめるのなら、十分それは物語として成り立っています。

おいしくるメロンパンの楽曲というのはそういった意味では小説と同じようなイメージ。

聴く人がよりその世界観に入り込めるよう、感覚的な工夫は特に凝らしているとのことです。

物語のような楽曲と聴くと、メッセージ性は薄いとしてもそれだけでワクワクしてきませんか?

アーティストがみんなメッセージを持っていなければいけないわけではないのです。

続いて歌詞の内容を読み解いていきましょう。

病に苦しむ主人公

手垢にまみれた街を今
洗い流していったんだ
ねぇ僕も慰めて

出典: 命日/作詞:ナカシマ 作曲:ナカシマ

「手垢にまみれた街」という表現は「こんな街並みはもう見飽きてしまった」のような意味でしょうか。

それに続く「洗い流して」という言葉には「忘れてしまう」のようなニュアンスを感じます。

要するに主人公は、見飽きるほど住み慣れた街並みさえも思い出せないぐらい弱っているということ。

「僕も慰めて」という言葉にその感覚が滲み出ていますね。

死んだ友達の命日も
思い出せなくなっていた
蛇口から水を飲んでも

出典: 命日/作詞:ナカシマ 作曲:ナカシマ

大切な友達の命日すら忘れてしまうぐらい朦朧とする意識。

他のことを考える余裕などないということを遠回しに表しています。

冷たい水を飲んだところで、そのフラフラとする感覚が和らぐことはありません。

降り注ぐ雨に言葉を投げかけたのは?

せめてこの風邪が治らないうちは
そばにいて
朝も沈むくらい降り注いでいて
なにも聞かないで

出典: 命日/作詞:ナカシマ 作曲:ナカシマ

病気で弱っているときというのは、誰かにそばに居て欲しい気持ちになるもの。

しかしここで「そばにいて」と言っている相手は人ではないようです。

それは降り注ぐ雨に対しての言葉。

雨音が主人公にとってよほど落ち着くものなのか、空から降って来たそれが亡くなった友達の声に聞こえるのか。

ただボーっとその音を聞いていたいという主人公の感覚が伝わってきます。

冬の朝布団から出られないあの感覚も

毛布の温度と溶け合って
境い目すら失ってしまえたらいいのに

出典: 命日/作詞:ナカシマ 作曲:ナカシマ

ここの部分は布団に潜ったときの心地良さが上手く表現されていますね。

冬の朝に布団から出られないあの感覚。心地良いんですよね。

熱で頭がボーっとしている主人公にとっては、その感覚もより如実なのではないでしょうか。

窓を開けたのは友達がいつでも帰ってこれるように?

せめてこの熱が下がらないうちは
そばにいて
夜も凍るくらい降り積もっていて
何も言わないで

窓は開けとくよ

出典: 命日/作詞:ナカシマ 作曲:ナカシマ

今度は降り積もる雪に対して「そばにいて」と呼びかける主人公。

やはり空から降ってくるものに対して特別な想いを持っているようです。

「窓は開けとくよ」と言っているのは降り積もる様子を見るためか、その音がより伝わりやすくするためか。

あるいは、亡くなった友達がいつでも帰ってこれるように、開けておくのでしょうか。

主人公を苦しめていた病は風邪でも熱でもないのでは?